『Mystery Freaks Vol.5』
文学フリマ京都10_雑感
新生ミステリ研究会が、京都に帰ってきたぞー!
ということで、2026年1月18日に開催された「文学フリマ京都10」に出店してきました。新生ミステリ研究会が初めて出店した文学フリマが、ここ京都だったため(2024年1月14日開催「文学フリマ京都8」)、京都の地はことさらホーム感を勝手に強くしています。
私(庵字)は例によって前日入りし、さらに有給が許したため、三泊四日で京都を(最終日には奈良も)堪能してきました。今回はそのレポートを簡単に綴ってみようと思います。
1月17日(土)
過去二回の文学フリマ橋とにおいて、新潟~京都間の往復に私はすべて別個のルートを通っています(2024年:在来線と特急を乗り継ぎ、日本海側からの鉄道ルート。2025年:小牧空港(名古屋)から先は在来線の空路と鉄道の併用)。今回も新たなルート開拓のため、伊丹空港まで行き、折り返す形で在来線で京都入り、という道程をとってみました。結論から言えば、これが現状「新潟~京都」のベストルートではないかと思います。天候に左右される(実際、20日昼間の時点では、強風のため帰路の便が飛ばせるかどうか分からない状況でした)面はあるため、確実性を期すのであれば、上越新幹線~東海道新幹線の新幹線での陸路が良いのかもしれませんが、早期に予約を取れば飛行機のチケットはかなり安価に手に入るため、直前に急に行くなどでもない限りコスト面で大幅に優れます。それに何より空路は早いです。加えて私は、個人的な想いとして「空を飛ぶ」という行為に特別なものを感じます。陸路は、言うても恐ろしく時間と体力さえ許せば、人力でも同じルートを辿ることは可能です(新幹線の海底トンネルなども歩行許可が下りるものとして)。しかし、空路は違います。生身での飛行能力を有しない人類にとって、飛行機はまさに夢の乗り物です。はるか上空から窓外に見下ろせる街並みや自然など、人間生身では絶対に目視することの出来なかった光景です。この体験は決して特権的なものではありません。チケットを買いさえすれば誰でも味わうことが出来ます。科学文明のあるべき姿です。
そんな人類の科学力の恩恵にあずかり、午前中に新潟を発ち、伊丹空港から在来線を乗り継いでも、お昼過ぎにはもう400km以上離れた京都の地を踏んでいました。おそるべき速さ、早さ。ライト兄弟まじリスペクトです。
観光も文学フリマ出店の楽しみのひとつ。向かったのは、五重塔でおなじみの東寺です。
東寺では毎月、「お大師さまのおことば」というチラシ(というのは失礼か)を無料配布しています。当月分のみならず、在庫がある限りバックナンバーも配布されており、その中の令和七年五月分の「おことば」に大きな感銘を受けたので、ここで紹介したいと思います。

衆生愚迷にして自心に仏が有ることを知らず
(真言二字義)
我々衆生は優れているから世に出てきたのではない。仏に会わないとどうにもならない愚かな凡夫なのである。天才のように努力して賢くなり得る身ならば、仏に会う必要はないではないか。愚かな凡夫にこそ、仏が出向するのである。仏は平和なお浄土ではなく、いつも地獄にいるのである。
なんともありがたく、含蓄のあるおことばではないでしょうか。仏は地獄にいる! 考えてみればそのとおりです。苦しむものを救おうとしたなら、その苦しむものがいる場所へ赴くよりほかありません。もちろん、お浄土(平穏な場所)に座したまま、地獄(現地)へ行かずして救う方法もあるでしょうが、仏は自らの身を地獄へ投じる道を選ばれました。
このおことばは「我々が救われるためには仏に出会うしかない」といっているわけですが、ここでいう「仏」とは、なにも本物(?)の仏様をさしているわけではないのだと私は思います。この「仏」とは、すなわち「自分を助けてくれるもの」全般の比喩なのではないでしょうか。それは多くの場合「良縁」と呼ばれるような人との出会いであるでしょうが、それ以外にも、芸術であったり、自然であったり、人の手では操作できない「運」であったりもすると思います。それらすべてを「仏」として表している。
また、興味深いのは、「天才」のことを「努力して賢くなり得る身」と表現しているところです。これはつまり「生まれ持った天才などいない」と言っているわけです。人というものは、世に出て来たときは皆あまねく「凡夫」であり、「仏」に合わずとも自らの努力で才覚を現していけるもののことを「天才」という。もしかしたら、世の中の「天才」と呼ばれる人たちの中には、「特段の努力もなしに、誰の助けも借りず、天賦の才能だけでトップに立っている」というように見える人もいるかもしれません。ですが、そんな人はいないのだと。「天才」と呼ばれる、あるいは自覚している人は皆、「努力して賢くなり得る身」として生まれてきたか、運良く「仏」に出会うことが出来たかのどちらかであるわけです。もし仮に、「いや、俺は努力もしていないし、人の助けも借りずに、生まれ持った才能だけでのし上がった」という「自称天才」がいるとしたら、「お大師のおことば」によれば、それは大きな錯誤だと言わざるを得ません。自身に特段努力したという記憶はないのであれば、人生のどこかで必ず「仏」に出会っていたはずです。そのことを忘れているか、意識できなかったというだけでしょう。
と、ここまで書いてきて、「それじゃあ、天才じゃない凡夫は、仏に出会えないと一生凡夫のままなのか」という疑問が湧いてきたことと思います。そこで立ち返っていただきたいのは「おことば」のタイトル、「衆生愚迷にして自心に仏が有ることを知らず」。この「自心に仏が有る」という部分です。そうです、仏はすでに衆生の心の中にいるのです。この仏のありようは個々人で違っていて、いわば触媒のようなものです。たとえば、複数の人が同じ芸術作品に触れたとして、ある人は何も感じなかったり、また、ある人は脳天をハンマーでぶっ叩かれたような衝撃を受けたりと、人によって反応は様々あるはずです。触媒たる「自心にある仏」が反応したかしなかったかの違いです。そういったもの、あるいは人に出会えるかどうか、なのではないでしょうか。
素人が利いたふうなことを書いてしまい、すみません。このあたりの話は、メンバーのKanさんに詳しい講義をしていただきたいところです。
1月18日(日)
イベント当日です。開催場所は、すっかりおなじみとなった京都市勧業館みやこめっせ。ここを訪れるのも、もう三回目です。今回は凛野さんが個人ブースを出すため、「新生ミステリ研究会」は、私と尾ノ池さん、さらに、昨年の京都に引き続き、今年も奥田光治さんにブースに入っていただいて展開しました。イベントについては、別途「雑感」としてホームページに上げておりますので、そちらも読んでいただければと思います。
1月19日(月)
地理的な関係もあって、地方の文学フリマ出店の際に私は複数泊するのはもはやお約束。ということで、翌日はかねてから気になっていて、猫好き界隈では有名(?)な、とあるスポットに出かけてみることにしました。京都駅前からバスに揺られること約一時間。やってきたのは京都市の北に位置する「猫猫寺」です。これで「にゃんにゃんじ」と読ませます。ふざけています。


「寺」と名が付いていても、別に宗教施設というわけではなく、その正体は猫に関するアート作品を集めた美術施設です。大量の猫グッズの物販も充実しており、一部を除いて管内は撮影可です。京都中心部からは少々アクセスに難はありますが、猫好きは一度は訪れたい施設なのではないでしょうか。徒歩数分圏内に、同じく猫をテーマとした「猫族歴史博物館」(通称「猫博(にゃんぱく)」)もあります。ぜひ併せて行ってみてはいかがでしょうか。


猫アートをじゅうぶん堪能したあとは、京都市中心部に戻り、伏見稲荷大社を訪れました。

伏見稲荷大社といえば、有名なのは「おもかる石」です。灯籠の上に載った石を、願い事の成就可否を念じながら持ち上げて、そのときに石が予測していたよりも軽く感じたら願い事は叶い、重く感じたら叶い難い、といわれる代物です。ということは……この石の攻略には必勝の策があることがお分かりになるかと思います。つまり、事前に石の重量をなるべく重く見積もっていれば、結果的に「軽い」と感じられるわけです。
しかし、それでは面白くありませんし、おそらく、そういった〝チート〟ではおもかる石の御利益は得られないでしょう。一度挑戦してしまったら、もう石の重さを体感できてしまうため、二度目の挑戦に意味はなくなります。一度きりの勝負というわけです。
そこで私は、おもかる石に挑む前に、遠くから石をよく観察しました。おもかる石は、角の摩耗した立方体のような形状をしていて、一辺は約15センチといったところ。角の摩耗具合がかなり大きいため、ほとんど球として見てもよいかもしれませんが、球の体積を求めるのは面倒なので、あくまで立方体と見なして、15×15×15=3,375立方センチメートル。摩耗による減少を1割と見て、3,375×0.9=3,037立方センチメートル。石の比重はおむね2.5なので、3,037×2.5=7,593。スマートフォンの計算機を駆使し、結果、おもかる石の重量は、約7.6キロと見積もりました! いつも抱っこしているうちの猫の体重が4.5キロなので、おもかる石の重量は、成猫1.7匹分。余裕余裕。事前に必要以上に石を重く見積もるのと違って、これは科学の威力です。十万馬力です。〝チート〟とは見なされないでしょう。
すべての準備が整ったところで、私はおもかる石挑戦の列に並びます。いよいよ私の番がまわってきました。(勝ったな……)初号機の暴走を目の当たりにした碇ゲンドウ指令のように、私は、にやりとほくそ笑みながら両手で石を挟み、うちの猫1.7匹分の重量を思いながら持ち上げました。結果……(うわっ! 重っ!!)想定をはるかに超える重さでした!(お前、そんなに重かったか?)私は心中、家に残してきた猫を思い浮かべました。
猫を抱っこするときと、おもかる石を持ち上げるときの姿勢の差異、それによって生じる荷重の掛かりかたが違っていたこと、そこに想像力が働かなかったことが敗因でした。猫を抱っこする際は、たいていの場合、足下に寝転んでいる猫を屈んで抱き上げる形になります。しかし、おもかる石の場合は、直立した姿勢で、両手をほぼ水平に伸ばして持ち上げることになります。猫のときは体全体の力を使えるのに対して、おもかる石を持ち上げるときに使えるのは両腕の力だけです。体の重心と対象物との距離も全然違います。支点、力点、作用点の関係から、同じ重量の物体を持ち上げるにしても、掛かる負荷はおもかる石のほうが断然強くなるわけです。(おもかる石、おそるべし……!)。見事に敗北を喫し、私は伏見稲荷大社をあとにしたのでした。
1月20日(火)
三泊にわたった京都滞在もいよいよ最終日です。帰路も往路と同じく、伊丹空港から新潟です。伊丹空港発は夜の便をとりました。いったん南下して奈良で観光を楽しもうという魂胆です。
奈良へ向かう途中で、まず私が向かったのは、京都府京田辺市に位置する「酬恩庵(しゅうおんあん)」またの名を「一休寺」。この名前が表すとおり、ここは臨済宗大徳寺派の禅僧、一休宗純が過ごしたお寺です。禅僧の一休宗純というか、私の世代には、アニメ「一休さん」の主人公として圧倒的な知名度があります。私は子供の頃このアニメが大好きで、よく視ていたこともあり、いつか訪れてみたいと思っていた場所でした。

最寄り駅は、近鉄新田辺駅か、JR田辺駅。この二駅は二百メートル程度の距離をおいて東西に並ぶ形で存在しており、昨年の文学フリマ福岡のときに訪れた、松本清張『点と線』でおなじみの、西鉄香椎駅とJR(当時は国鉄)香椎駅との関係を彷彿とさせます。ちなみに、どちらの駅もコインロッカーはありませんので、酬恩庵へ行く際にはは身軽にすることをおすすめします。私はスーツケースを引っ張って数十分程度歩くことになりました。
境内の一角に立つ札に、一休宗純の残した言葉が書かれていました。

有漏路(うろじ)より 無漏路(むろじ)へ帰る一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け
こんな精神で人生を歩んでいきたいものです。
酬恩庵をあとにした私は、本日もうひとつの観光スポット「東大寺」へ向かいました。言わずと知れた日本社寺界の超ビッグネーム。私は訪れるのは三回目ですが、最初は中学の修学旅行、二度目はもう二十年近くなので、記憶もすっかり上手い具合に薄れている頃合いです。
東大寺といえば大仏ですね。上手い具合に記憶が薄れていなくとも、やはり私はその圧倒的大偉容に息をのんでいたと思います。どこかの修学旅行生の見学のタイミングとバッティングし、大勢の生徒たちも興味深そうに大仏を見上げていました。その中のひとりの女子生徒が、スマートフォンで大仏を撮影しつつ、「かっこいい」と呟いていたのが印象的でした。仏像を「かっこいい」と思える感受性、それを大切にしてほしいなと思いました。

大仏殿の奥では、建物修繕の際に使われる瓦の寄進を募っていました。寄進をすると、実際に修繕に使用される瓦に何か好きな言葉を書けるそうです。見本として、達筆な「大願成就」と書かれた瓦が出されていましたので、せっかくなので、会メンバーの大願成就を願って一枚寄進することにしました。見本があったため、てっきり係の方が書いてくれるのかと思っていましたが、お金を払うと、目の前に瓦を置かれ、筆を差し出されたのです。「お前が書くんだよ」……そういうことだったのですね。悪筆ご勘弁ということで、瓦を寄進してきました。良い一年になりますように。



以上、2026年1月の京都~奈良観光記でした。
では最後にー! 文学フリマ京都10で新生ミステリ研究会ブースに来てくれた皆さーん! 愛してまーす!!