


「ハードボイルド」についてあれこれ

『Mystery Freaks Vol.4』

“The style of writing has been around for centuries, but no one knew how to define it.”
––––William Marling
「ノワール小説」というミステリにおけるひとつのサブジャンルがあります。「ノワール」(noir)とは、フランス語で「黒」を意味します。スタンダールの『赤と黒』(”Le Rouge et le Noir”)の「黒」(noir)と同じ単語です。また、「黒」から転じて、死の「陰鬱さ」や「悲哀」を暗示する場合があるようです。
では、その「ノワール小説」とはどのような小説かというと、簡単にいってしまえば「悪いやつ(ら)が悪いことをして、逃げおおせる話」とも、「主人公が個人の破滅に向かって、暴力を伴いながらひた走る話」ともいえます。平たくいえば、犯罪小説の一種です。
明確な定義については、ある程度の形が決まっている本格ミステリ以上に難しいのではないかと感じます。それはミステリ評論家・研究者でも同じようで、彼らの「ノワール小説」関連の本の序文には、「定義が大変難しい」、とはじめに口をそろえて述べられることが多いです。上記の引用文を見てもわかる通りですね。
「ハードボイルド小説」の定義が十人十色であるのと同様に、「ノワール小説」の定義も十人十色でしょう。また、ここで引き合いに出した「ハードボイルド小説」は、「ノワール小説」とわかちがたくお互いに結びついているジャンルといってもいいのかもしれません。
もともと、「ノワール小説」(Roman Noir)という言葉が使用された最初期の例は、一八世紀後半のイギリスにおけるゴシック小説や恐怖小説を指すものとして、でした。ここでの「ロマン・ノワール」が指す範囲は広く、例えばホレス・ウォルポールの『オトラントの城』やメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』、またウィルキー・コリンズやナサニエル・ホーソーンの諸作など例をあげればきりがないほど、本当に様々な(ただ相似性は持った)ものを含みます。
ここで時代は飛び、一九四五年にフランスのガリマール社から「セリ・ノワール」(Série Noir)という叢書が発刊されます。その主な発案者はガリマール社の編集者、マルセル・デュアメルであり、「セリ・ノワール」という叢書の名づけ親は詩人のジャック・プレヴェールです。”Série”とは「シリーズ」の意ですが、「セリ・ノワール」が最初はどのような叢書だったかというと、当時、主にアメリカで盛んだったハードボイルド小説をフランス語に翻訳し、仏国内に紹介するというものでした。
「セリ・ノワール」で最初に紹介された作家は、ピーター・チェイニイと(ジェイムズ・)ハドリー・チェイスという、イギリス人ではあるもののアメリカン・ハードボイルドのような酷薄さと文体を持つ作品を書いていた人たちです。これは余談ですが、ガリマール社は日本でいうところの岩波書店と同じような格式の高い老舗出版社であり、「セリ・ノワール」の存在は、岩波文庫に通俗犯罪小説専門のレーベルができたことと同じ衝撃だった、と仏文学者の中条省平は述べています。
「セリ・ノワール」の最初期は、アメリカやイギリスのハードボイルド小説の翻訳紹介に終始していましたが、ここで変化が起こります。フランス人作家自身も「ノワール小説」を書くようになったのです。代表的な初期の人物はテリー・スチュアート(作品の邦訳はないと思います)、そしてフランス人自身の手による「ノワール小説」作家の定着を決定づけたのは、レオ・マレとジャン・アミラでした。レオ・マレには複数冊の邦訳小説がありますが、ジャン・アミラには邦訳の小説はないようです。
彼らの作品は、アメリカン・ハードボイルドの影響が色濃いものでしたが、そののちにフランスの暗黒街(ミリュー)を舞台とし、その暗黒街(ミリュー)で用いられる俗語をふんだんに用いた、生き生きとした「ロマン・ノワール」が書かれるようになりました。その代表的な作家は、アルベール・シモナン、オーギュスト・ルブルトン、ジョゼ・ジョバンニでしょう。彼らの描く作品は主に暗黒街(ミリュー)の悪党たちが主人公で、悪党同士の友諠や裏切りなどを描いたものが多いです。シモナンの『現金(げんなま)に手を出すな』は映画化されており、またジョゼ・ジョバンニはのちに映画監督としても活躍しています。むしろ、日本でのジョバンニに対する認識はそちらのほうが強いと思います。
その後、一時「セリ・ノワール」は停滞期に入りますが、「ネオ・ポラール」(日本語でいうと「新ミステリー」)の登場により、再び活気を取り戻します。「ネオ・ポラール」の大きな特徴のひとつは、著者の政治的な思想を多分に作品に取り込んだところでしょうか。(本邦での)代表的な作家はジャン=パトリック・マンシェットとADG(アデジェ)です。これも余談ですが、YouTubeには大御所のレオ・マレ、当時は中堅作家のマンシェットとADGがテレビ番組で対談し、談笑している動画がアップロードされています。個人的にこの動画はとても興味深く、なぜならマンシェットとADGの政治的志向は真逆だからです。
そして、多分に政治的な要素を取り込んだ「ネオ・ポラール」でしたが、粗品乱造的な傾向におちいり、それは次第に勢力を弱めていきました。そののち、「セリ・ノワール」は盛衰を繰り返しながら、「社会派」の作家と「文学派」の作家に二分していきます。これは九〇年代初期までの大雑把な概観です。
九〇年代前半~現在までの「セリ・ノワール」の状況を著した日本語の本がなかなか見つからず、また私はフランス語もできませんので、その間のことは私にはわかりません(ごめんなさい……)。ただ、現在も「セリ・ノワール」は健在であり、その叢書巻数は二〇二五年一月現在で、発刊予告も含めて三〇四七巻です。日本のハヤカワ・ポケット・ミステリのように定期的に発刊しているかどうかはわかりませんが、ポケミスを越える叢書巻数であり(ハヤカワ・ポケット・ミステリは約一九〇〇巻強です)(ハヤカワ・ポケット・ミステリの最初の刊行番号は一〇一番です)、さすが「セリ・ノワール」は老舗叢書だな、と感じます。
では、アメリカではどのように「ノワール」という言葉が使われていたのでしょうか? 映画における「フィルム・ノワール」という言葉は、前述の「セリ・ノワール」から影響されて誕生したものです。アメリカの、ある時期のハードボイルド的映画に見受けられる雰囲気に「ノワール感」を覚えたフランス人が命名した呼称でした。
アメリカにおいて、ある種の犯罪小説を意図的に「ノワール」と呼んだ最初の人物はニック・キンバリーです。一九八三年に、ジム・トンプスンという作家の犯罪小説が”the Black Box Thriller collection”に収録された際、序文で彼の作品を「ノワール」という言葉で形容したようです。
そののちに、作家・評論家・編集者のバリー・ギフォードが”Black Lizard”(ブラック・リザード叢書)を刊行した際にも、叢書の収録作品を「ノワール」という言葉で形容し、そのブラック・リザード叢書が成功したことで、アメリカのミステリ業界において「ノワール」は一般的な言葉となっていきました。ブラック・リザード叢書はジム・トンプスンやチャールズ・ウィルフォード、デイヴィッド・グーディスらといった、一語いくらで読み捨てのミステリを書いていた「パルプ・ノワール」の作家たちの再評価に貢献し、叢書自体は途中でクノップフ社に吸収されながらも、”Vintage Crime”というシリーズとして古典から最新までの犯罪小説を出版するものとなりました。
また、日本では一般に「ハードボイルド作家」として認識されている、ダシール・ハメットやレイモンド・チャンドラー、ジェイムズ・M・ケインやホレス・マッコイらを初期のアメリカン・ノワール作家としてとらえる向きもあるようです。例えば、アメリカの研究書で、ウィリアム・マーリングという大学教授が”The American Roma Noir Hammett, Cain, and Chandler”(アメリカン・ロマン・ノワール ハメット、ケイン、チャンドラー)という著作を出版しており、また他のハードボイルドやノワールのガイドブックでも、初期のハードボイルド作家をノワール作家としてとらえなおしています。
日本におけるその代表的な例は、米文学者の諏訪部浩一によるハードボイルド・ノワール評論書やそのジャンルの文庫の解説であり、似た観点からハメットらの作品を「ノワール小説」として再評価しています。
ちなみに、日本においてフランス産ロマン・ノワール以外を指す言葉として「ノワール」が意図的に雑誌などで使われたのは、早川書房の「ミステリマガジン」一九九三年一月号において、だと思います(確証はありません……ごめんなさい、鋭意調査中です)。これは、現在ではアメリカン・ノワールの大家となったジェイムズ・エルロイの特集のなかにおいてでした。
現在では、「ノワール」という言葉は犯罪小説を幅広く指す言葉となっています。例えば、映画も大ヒットしたギリアン・フリンの『ゴーン・ガール』のような作品は、「ドメスティック・ノワール」(あえて訳すならば、「家庭内暗黒小説」でしょうか)と呼ばれますが、これは一般的な「ノワール」のイメージとは違っているでしょう。「とりあえず犯罪小説のことは『ノワール』といっておけばよいだろう」といった感はなきにしもあらずですが、それだけ海外のミステリ読者人口に膾炙した、あるいはミステリ業界に膾炙した言葉になっている、とみてよいのかもしれません。
言葉を混在させながら「ハードボイルド」と「ノワール」について書いてきましたが、このふたつの違いについて考えてみたいと思います。一番わかりやすいのは、英語版Wikipediaを要約した、「社会の汚濁を描いているのがハードボイルドで、個人の暗い破滅的な内面を描いているのがノワール」といったものではないかと思います。どちらも犯罪小説の一種でありながら、個人の暗い「外」と「内」のどちらに焦点を当てて作品を描くかによってどちらになるかが変わってくるのです。
また、前述したジェイムズ・エルロイは、「ノワールとはハードボイルドの特殊な派生形」(大意)だと、二〇世紀ノワール短篇傑作選(未邦訳)の序文で述べています。大きなジャンルのくくりとして「ハードボイルド」があり、その「ハードボイルド」の特殊な形態として「ノワール」が含まれている、というイメージでしょうか。数学の用語を用いれば、「ノワール」とは「ハードボイルド」の真部分集合だ、ということでしょう。
日本では異なったサブジャンルとして扱われることが多いこのふたつですが、これは、本邦ではチャンドラー風の一人称私立探偵小説が主に「ハードボイルド小説」だと認識されていること、また海外でのジャンルのラベリングの仕方がこれまでは「ノワール小説」の各国での発展や用語の定着をみてきましたが、ここまで我慢強くこの記事を読んでいただいた読者の方には、ひとつの疑問が頭に浮かんでいるかもしれません。その疑問とは、「『ノワール小説』って本当にミステリというジャンルなの?」というものです。
日本では、現状「本格ミステリ(謎解きミステリ)≒ミステリ」という認識が一般的だと思います。
ただ、ジャンルとしてのミステリが指す範囲やそれが持つサブジャンルは伝統的にもっと広く、本格ミステリはもとより、ハードボイルド小説もノワール小説も警察小説もエスピオナージュ(スパイ小説)もスリラー小説も冒険小説もケイパー小説もサスペンス色が色濃い作品もその他の犯罪小説なども、ミステリの範疇に入ります。
特に「ハードボイルド」や「ノワール」についていえば、これらは”detective fiction”であり、またその派生形であり、ミステリの範疇に含まれます。
これに違和感を覚える方もいらっしゃるのは理解できますが、文藝春秋の『東西ミステリーベスト100』などのガイドブックを紐解いてみれば、上記のようなサブジャンルの作品は、最低一冊は選ばれています。
読者によってジャンルの得手不得手はもちろんありますし、趣味で読書をおこなっている方は自由に読みたいものを読むことがなにより一番ですが、ミステリというジャンルが持つ固有の「広がり」については、大きな視点で眺めてみると何か得るものがあるかもしれませんね。
※この記事を書くうえで、以下の本を主に参照しました。
Paul Duncan “Noir Fiction”
William Marling “American, Hard-boiled and Noir: A Guide to the Fiction and Film”
ジャン=ポール・シュヴェイアウゼール『ロマン・ノワール––––フランスのハードボイルド』(平岡敦 訳 白水社クセジュ)