コラムを更新しました:「文学フリマ東京41」に出店して思ったこと
「文学フリマ東京41」に出店して思ったこと
こんにちは。会長の庵字です。
今回のコラムは、去る11月23日に開催された「文学フリマ東京41」に出店したときの模様や、文学フリマそのものについても、個人的な見解を交えて書いていきたいと思います。
こんにちは。会長の庵字です。
「またお前か」「前回書いたばかりだろ」「凛野さんや安条さんを出せ」という皆さまの声は、いま私の頭の中に確かに届いています。ですが、ご容赦を。物事には事情というものがありますので。
さて、前回(11月下旬)のコラムで私は、「地方の文学フリマにも行こうよ」と提言しました。そこから派生した話として、「地方とミステリ」について私が考えていることを書いていこうと思います。といっても、地方を舞台とした既存のミステリ作品について語るわけではありません。どういうことかというと……。
私は過去に、小説投稿サイトに載せている作品に対して、サイトを運営している会社の編集の方から講評をいただく機会がありました(サイト上の公募で選考に残ったわけではなく、過去に公募に出したことのある(そして選考に残らなかった)作品を対象に何作かが選ばれて、特別に編集から講評をもらえる、といった感じの趣旨のものでした)。そこでいただいた指摘の中に、「地方を舞台にしている意味がない」というものがありました。私が出したその小説(ミステリ)は、地方が舞台でしたが、確かに事件自体に地方独特の設定やバックボーンといった要素は何もなく、同じ事件が、例えば東京で起きたとしてもいっさい支障はない、という内容のものでした。講評者はそれが不満だったのでしょう。ようは「わざわざ地方を舞台にしたからには、その地方ならではの話、事件を見せてほしい」ということです。その言い分も分からなくもありませんが、私としては、こう言いたいのです。
「地方で普通の事件が起きたらいかんのか?」
件の講評者は「地方ならではの特色を出してほしい」と言いたかったわけですが、ここでいう「特色」とは「キャラクター」と言い換えることも出来ます。確かに、とかく「地方」というのはキャラクター化されがちです。そういうカテゴライズはキャッチーですし、分かりやすくもあります。新潟=お米、青森=りんご、福井=恐竜、といった具合ですね。地方の側からそういった特色を推すことも当然あります。ですが、当然ながら、その地方にはその特色しかないわけではありません。新潟県民の全員が米農家ではないのです。こういった、地方のキャラクター化があちこちで行われている理由には、「東京=基準(スタンダード)」という諒解が存在します(先の講評者も東京の方でしょう)。それに対するのは、すなわち「地方=特色(キャラクター)」というわけです。こういった、自分(たち)を基準地として他者を特色化する、という演出は、特にエンタメにおいて多く見られます。
1994年に放送された『機動武闘伝(きどうぶとうでん)Gガンダム』というアニメがありました。遠い未来世界の話で、国家間の取り決めで大規模な戦争を放棄する代わりに、四年に一度、各国がそれぞれ自国代表の「ガンダム」を用意して、そのガンダム同士がタイマンを張り続けて(ガンダムファイト)、最後に残ったガンダムの国家が向こう四年のあいだ世界支配の権利を有する、という凄まじい内容のアニメでした。この作品に登場する世界各国が用意した国代表のガンダムというのが、まあ見事に「キャラクター化」されたものでした。アメリカ代表は、アメフトとボクシングをモチーフにした「ガンダムマックスター」、中国代表は、中国拳法と龍を合わせた「ドラゴンガンダム」、そのほかにも、風車に変形する「ネーデルガンダム」(オランダ代表)、全身にサボテンのようなトゲを生やした「テキーラガンダム」(メキシコ代表)、などなど。「マタドールガンダム」「ジョンブルガンダム」「ファラオガンダム」などは、名前だけでどの国の代表か分かります。当然、各ガンダムたちは、その名前から容易に想像できる特徴的な外見をしていて、もう世界の国々を徹底して「キャラクター化」しているわけです。それらに対して、日本代表は「シャイニングガンダム」(後半に「ゴッドガンダム」に乗り換え)という、こいつだけが「宇宙世紀」に混じっても何の違和感のないような、見た目からして普通にかっこいいガンダムとなっていました。この世界観の文脈であれば、日本代表は、全身黒ずくめで巨大な手裏剣を背負った「ニンジャガンダム」とか、二刀流で髷を結った「サムライガンダム」とか、アンコ体型で顔に隈取りのある「スモウガンダム」なんかにならなければおかしいはずです(いちおう、シャイニングガンダムの必殺技「シャイニングフィンガー」が相撲の張り手をモチーフにしている、という説はあります。また、「忍者」という属性は、どういうわけだかドイツ代表の「ガンダムシュピーゲル」に付与されました)。どうして各国が自国の特色をこれでもかとキャラクター化したガンダムを出してきている中、日本だけがこれといった日本色のない、普通にかっこいいガンダムなのか、と言われたら、「このアニメが日本で作られたから」というしかありません。「自分(日本)をスタンダードとし、よそ(外国)をキャラクター化する」という方法に則ったわけです。もしもこのアニメがアメリカで作られていたなら、アメリカ代表は普通にかっこいいガンダムで、日本代表は「サムライガンダム」になっていたことでしょう。
余談が長くなってしまいました。何が言いたいのかというと、「キャラクター化しなければ分かりにくい(存在意義がない)とされている地方(よその土地)にも、基準地と同じような人はいて、暮らし、文化もある」ということです。何度も言いますが、新潟県民が全員米農家ではありませんし、アメリカにもアメフトが好きじゃない人もいるでしょう。それなのに、「地方を舞台として小説を書くからには、その地方の特色が出ていないと意味がない」「アメリカ代表なのに、普通にかっこいいだけの特色のないロボットでは意味がない」というならば、それは基準地の傲慢なのではないかと私は思うのです。「基準」といったって、それそのものが基準地の主観で決められたものなわけですから。
最近よく聞かれる「地方創生」的な話の中で、「近頃はどの地方へ行っても、東京と同じような町並み、景色しか見られなくなってつまらない。もっとその土地独自の景観を守るべき」みたいなことを言われます。地方の言い分からしたら、「いや、そのほうが便利で住みやすいからそうなってるんやで」と返すしかありません。なんでわざわざ東京人を楽しませるためだけに、地方民が昔ながらの不便な環境で暮らさなければならないのか。守っていくべき文化や歴史というものは確かにあるでしょう。ですが、そのためにそこに住む人たちに不便を強いるというのは違うと思うのです。坂口安吾も書いています「必要ならば、法隆寺をとりこわして停車場を作るがいい」と(「日本文化私観」)。
また話がずれそうになったので戻しますが、「地方で、その地方独特な意匠のない、何の変哲もない事件が起きたって(そういうミステリを書いたって)いいじゃない」と私は言いたい。私は前職で、主に北陸、関東を中心に廻る営業職に就いていました。その訪れた土地土地で、同業種の多くの会社を訪問していたのですが、まあ、土地が変わったからといって、東京のど真ん中でも、福島県の山奥でも、やる仕事は同じですし、会社構えも似たようなものでしたし、当然、応対してくれた社員の方々も、そう変わるものではありませんでした。一部方言を除けば(青森の方が話す方言が半分くらいしか理解できなくて、ほとんど勘で受け答えしていたのはここだけの秘密です)。地方にだって、東京の人となんら変わったところのない、普通の人たちが暮らしています。同じ「普通の人」が暮らす場所ならば、全国津々浦々、海外も含めて、その土地ならではという特色など何もない「普通の事件」が起きてもいいはずです(現実には起きています)。それなのに、フィクションの世界では「地方独特の事件」だけが求められるというのは、何か違うと地方人のひとりとして感じます。
これが、アニメや実写になりますと、作品の舞台となった風景までが画面に描かれる、映り込むため、特に内容で地方色を推しださなくとも、「この作品の舞台はこの土地」ということをアピールしやすく、「聖地巡礼」的な効果も自然と期待できますが、文章だけの小説では難しいでしょう。特に必要もないのに登場人物がその土地の名物を食べるですとか、名所を訪れるなど、わざわざ文章で表現すると展開に無理やり感が出てしまいますし、最初から「ローカル感アピール」が出過ぎてかえってその描写が浮いてしまいます(自省)。そういったわざとらしさを極力排除しつつ、それでも小説で地方を舞台にするとなると、やはり自然に舞台の土地をストーリーに組み込めるような構造が求められてくるのかもしれず、話題性、ひいては商売的な視点から見れば、確かに件の講評者の意見にも頷ける側面もなくはないのですが。
また、新生ミステリ研究会の合作本『Mystery Freaks Vol.5』(300円にて、文学フリマで配布中)に寄稿したエッセイにも書きましたが、私は「ミステリ小説は実際に起きた事件を小説化したもの」という読書スタンスで読んでいるので、そういう読み方をするとなると、「不可能犯罪は東京及びその近郊で起きすぎ」という問題が出てきます。不可能犯罪界隈でも、東京一極集中問題は生まれているのです。不可能犯罪も地方分散をしなければいけません。
そこで私は訴えたい。これから不可能犯罪を起こそうとしている全国の超犯罪者の皆さん。その不可能犯罪、ぜひとも地方で起こしてみませんか? 東京には超犯罪者が多すぎます。それに比例して名探偵も数多く存在します。東京で石を投げれば名探偵に当たるでしょう。それに比例して、東京都民も不可能犯罪に慣れっこになっているはずです。今さら、完全な密室で見立て殺人を起こしたくらいでは、「ふーん」程度の感想しかもらえません。名探偵も大挙して押し寄せてきます。今や東京は不可能犯罪のレッドオーシャンなのです。ですが、地方は違います。「おらが地方で密室殺人が!」と町を村をあげて大騒動となること請け合いです。
「でも……地方で事件を起こすとなると、やっぱりその土地独特のモチーフを盛り込まないとダメでしょう? 特に小説は……」と心配される超犯罪者の方もいるかもしれません。確かに、最初こそ、「はぁ? こんな事件、○○(地方名)で起こす必要ないじゃないか! 東京でやれよ!」といった心ない誹謗は寄せられるかもしれませんが、そこは継続していくことが大事です。地方において、特段その地方でなければならない特殊な要素のない事件を起こし続けることによって、「地方だからって、別に普通の事件が起きてもいいんじゃね?」という世論を醸造していくのです。継続こそ力。「東京じゃないと不可能犯罪は起こせない」という空気を打破し、みんなの力で、普通の不可能犯罪(?)を地方に分散していこうではありませんか。
「地方とミステリ」といいつつ、ミステリにはあまり関係のない(「Gガンダム」まで出てきた)話になってしまいましたが、今回の話をまとめると、「地方の文学フリマにも行こうよ」ということです。
また、「あえて舞台を特定しない、あるいは、架空の地名を使うことにより生まれる効果、利点」というものも確実にありますので、それについての論は、また別のメンバーに語っていただきたいなと思います。
最後に、文中では色々書きましたが、『機動武闘伝Gガンダム』は、私も大好きな面白い作品だということは断っておきます。