


マーダーショー・マスト・ゴーオン ~コンパスの中心で~

コラムを更新しました:2025年 新年ご挨拶

赤い毛糸の帽子
――翔二を殺す。
それを、余命幾ばくもない私の人生最期の仕事にしようと思う。
長男である私が死ねば、父の遺産は次男の翔二が相続することになる。それだけは避けなければならない。父の遺産は、三男の泰三に受け継がせるべきだ。泰三が始めた事業は、ようやく軌道に乗り始めたところだ。父の遺産は大きな力となってくれるだろう。遺産が翔二の手に渡りなどしたら、賭博につぎ込まれてしまうことは火を見るよりも明らかだ。
療養のためにと、都会から半ば強引に山裾の田舎町に連れてこられたときには、ここが私の終の棲家となるのか、と小さな平屋を前にして暗澹たる気持ちになったものだが、住めば都とはよく言ったものだ。今では、空気が淀み、どこもかしこも人いきれに咽せていた都会のことを、恋しいとはまったく思わなくなった。よくもまあ、あんなごみごみとしたところに何十年も住み続けていたものだと、勝手ながら自分に呆れかえっているほどだ。
都会に生まれ育ってきた私にとって、とかく新鮮だったのは〝雪〟だ。ここへ越してきた秋口からいつも見ていた景色が、一晩経つと一面純白の雪に覆われていた、という現象には年甲斐もなく感動を憶えた。
この田舎町へ来てから実際、体調は良くなった。越してきた当初こそ店屋物に頼っていた食事も、今ではほとんど自炊している。今も夕飯の煮物を作るため、台所で野菜を刻んでいた。
具材を鍋に入れ終えて、台所の窓を開けると、窓から僅か五十センチほど隔てて、この家の敷地を囲う生垣が見える。この生垣の向こうは狭い道となっており、駅からこの家に向かおうとすれば、必ずこの道を通ることになる。
……来た。さくさく、と雪を踏み歩く独特の足音とともに、生垣の上に赤い毛糸の帽子が見えた。あいつが、翔二が来たのだ。
――調子はどうだい、兄さん。
居間に上がった翔二は、見舞いの言葉もそこそこに、
――ところで、相談があるのだが……。
いつものように、金の無心を切り出した。
適当に小銭を与えて、私は翔二を追い返す。翔二としても、見舞いにかこつけた金の無心が目的なのだ。貰うものさえ貰ってしまえば、もうこんな田舎に用はない、とばかりに、そそくさと帰路に就く。台所の窓から覗くと、生垣を越して、赤い毛糸の帽子が往路とは逆方向へ向かっていくのが見えた。
この日は珍しく、泰三も見舞いに来てくれた。
――このところ仕事が忙しくてね。あまり見舞いに来られないで済まなかったね、孝一兄さん。
気にすることはない、と答えてやる。正直なところ、独り身の私としては、見舞いに来てくれる泰三の顔を見ることが、この療養生活唯一の楽しみ、といってもいいくらいなのだが、そんな気持ちは当然おくびにも出さない。
――空気の綺麗なこの街で暮らしていれば、春には恢復も見込めるだろうと医者も言っていたよ。
そう言ってやると、泰三の顔に安堵の笑みが広がった。実際のところ医者からは、どう頑張っても次の桜は見られないだろう、と告げられているのだが。
一時間ほど話をして泰三は帰っていった。私は台所へと移動し、窓を見る。生垣の向こうを、鼻から上だけの泰三の顔が横切っていくところだった。窓を僅かしか開けていないため、泰三に気付かれることはないだろう。長身であった祖父の血は、私たち兄弟の三男にだけ隔世遺伝したらしい。泰三の身長は、私や翔二よりも二十センチ近く高い。
泰三の姿が完全に駅方面へ消えたことを確認してから、私は表へ出て、生垣の向こうへ廻る。この生垣に隣接した、二人がいつも見舞いに来るために使っている狭い道は、他よりも地盤が低いためか、融雪によって生じた水が常に滞水した状態となっている。そのため、歩行者がこの道を通る際には、生垣に沿って踏み固められて自然と形成された圧雪の上を歩くしかない。その幅は僅か五十センチ程度しかないため、この圧雪歩道を通る歩行者は、必然、我が家の生垣にぴたりと寄り添うようにして歩かなければならなくなる。――ここが狙い目だ。
私は、一メートル程の長さの竹を用意し、その割った先端に鋭く研いだナイフを挟み込み、さらに丈夫な紐で念入りに縛り付け、簡易な槍を作製した。
私の計画は、こうだ。
見舞い――正確には金の無心――に来た翔二が、この生垣の向こうの歩道を歩いてきたとき、この槍でもって生垣越しに突き殺すのだ。そののち、先端から取り外したナイフを生垣の向こうに放り投げる。あの道は滅多に利用者もいないため、犯行の現場を目撃されることはまずないだろう。自然、死体の発見も相当遅れるはずだ。事件は通り魔の犯行とみなされるだろう。翔二には敵も多い。賭博や借金に関連した容疑者も山と浮上してくるに違いない。
目視の効かない生垣越しとはいえ、翔二を狙うのは容易い。あの、いつも被っている赤い毛糸の帽子を狙いにすれば。
子供の頃、寒がりだった翔二のために――数年前に病没した――母が編んでやった、赤い毛糸の帽子。泰三が、どうして翔二にだけ、と陰で焼き餅を焼いていたことが思い出される。もっとも母と触れあう時間の短かった泰三がそう感じたのも無理はない。手のかかる子ほどかわいい、というのは本当なのだろうな、と私は思った。
歩道となっている圧雪は二十センチほどの厚みがある。その分も考慮して私は、ナイフが翔二の腹部を抉るように、槍を突き出す高さを割り出した。直前に窓から、翔二、と声をかけて立ち止まらせれば、より狙いは確実になる。生垣の中からナイフが飛び出してくるなど、まさか翔二は夢にも思わないに違いない。躱すことは不可能だろう。
私は、この殺害方法を、趣味で読んでいた海外の探偵小説から思いついた。
そんな荒唐無稽な人殺しの話なんて読んで、何が面白いんだ、と翔二は笑ったことがあったが、その探偵小説から得た着想が、お前を殺すのだ。
計画を立ててから、何度も入念に予行演習を繰り返し、いよいよ決行する覚悟を固めた。その間も、泰三と翔二は何度かこの家を訪れた。翔二の顔を見るたび、まだ素直で幼かった頃のことが思い起こされ、犯行を思いとどまろうという気持ちが少しは頭をよぎらなくもなかったが、帰り際に決まって繰り返される金の無心の言葉を聞くと、その気持ちは波が引くように去って行った。
翔二、やはりお前は死ぬしかないのだ。
決行の日、私は翔二に電話をかけ、まとまった金が出来たので少し融通してやるから来い。と呼び出し、指定した時間の少し前――昼過ぎ――から台所に待機し、開けた窓に耳を澄ませた。二人の弟がここへ来訪する際は――私が常に在宅していると知っていたからだろう――事前に連絡をくれることはない。私から呼び出すことも初めてだったのだが、翔二の声にそれを訝しむ様子はなかった。
私は、つけたストーブの火をすぐに消した。春と呼ぶにはまだ早いが、ここのところ降雪もなく、暖かい日が続いていたためだ。
そのときが来た。カツカツ、という駅方向から近づいてくる足音とともに、赤い毛糸の帽子が生垣の上に見えた。私は立ち上がり、手製の槍を掴むと、赤い帽子がちょうど窓の中心に来たところで、
――翔二。
声をかけた。帽子は止まった。そこに――
死ね、翔二……!
私は生垣に向かって、力の限り槍を突き出す。先端に括り付けたナイフが生垣を抜け、手応えが伝わってきた。人を刺し殺す経験など初めて――そして最後――だというのに、間違いなく人の肉と臓腑を刺し貫いた感触だ、と確信できた。
槍を引き抜くと――刀身すべてを真っ赤に染めた――ナイフを外し、計画どおり生垣の向こうに放り投げる。カラン、とナイフの落ちる乾いた音が聞こえた。
――やった……。
安堵のため息をついた直後、電話が鳴った。居間へと走り、受話器を取り上げる。そこから聞こえてきた声は……翔二?
――兄さん。済まないけれど、急用が出来て少し遅れそうなんだ。それと、俺、この前、見舞いに行ったときに帽子を忘れてきたみたいでさ、家になかっただろうか? あのあと、泰三も見舞いに行ったというから、もしかしたら泰三が見つけて持っていってくれたかもしれない。それはそうと、ここ数日は暖かいね。こんな気候が続いたから、あの生垣沿いの圧雪も溶けているかもしれないな。
(了)