東野圭吾を偲ぶ~私と東野ミステリ
『オツベルの密室』

【著者】庵字
【あらすじ】
素人探偵、安堂理真が訪れた、群馬県山中に建つ〈鳥啼荘〉は、外界との行き来が断たれた「閉鎖空間(クローズド・サークル)」と化してしまった。入れなかったはずの密室で発見される死体。暗躍する犯人。怪しい宿泊客。鳥啼荘で何が起きているのか? 安易な答えに飛び付くな。目に見える事実だけが、すべて。鳥啼荘に渦巻く謎を、安堂理真は解き明かせるか。(表題作)
・フライドチキンは殺しの味「愛と憎しみのフライドチキン」
・時を超える謎の凶器「夜空を染める」
3編収録。
【販売】
文学フリマ(東京41)
第一章 鳥啼荘へ
北陸自動車道を南下して関越トンネルに入る。長さ一キロを超えるこの長大なトンネル内で新潟県から群馬県へと県境を越えることになる。冬季であれば「トンネルを抜けたら南国だった」という〝逆「雪国」状態〟をいつも体感するのだが、十月半ばとなれば、関越トンネル新潟県側の湯沢町であっても、まだまだ降雪には早い時期だ。冷房も暖房も不要で、日差しで少し汗ばむなと感じたら、少し窓を開けてやれば心地よい清風が車内に流れ込んでくる。車で走るにも実に快適な季節だ。
トンネル出口すぐの谷川岳P.Aに接近する。この行程がレジャーであったなら、理真が立ち寄らないわけはないのだが(主に谷川岳からの湧き水(無料!)目当て)、今日ばかりは事情が違った。私の隣、運転席でハンドルを握る理真は——それでも名残惜しそうに——たった一瞥しただけで、パーキングエリア入り口をそのまま通り過ぎた。
さらに五キロほど進んだ先にある水上I.Cで下りると、私たちを乗せた車——理真の愛車スバルR1——は高速道路とは一転、一般道を今度は北上し水上駅方面へと舵を切る。
駅を過ぎ、利根川をひたすらに上流へと向かう。途中〝ここが道中最後のコンビニになるかもしれない〟という店舗で休憩をとった。屋外でコーヒーを軽く一服。見上げると、抜けるような青空と新緑が目に眩しい。これがレジャーであったなら……とまたしても思う。これから向かう先は山奥に建つペンションで、二泊三日の滞在が目的なのだから、そこだけを切り取れば問答無用のレジャーの様相を呈しはするのだが……。私はR1の後部スペースに積まれた鞄をリアガラス越しに見やる。中には保存の利く飲食物が数日分詰め込まれている。目的地のペンション——〈鳥啼荘〉——では食事も提供されるため、本来であればこんな準備は不用ではあるのだが……用心に越したことはない。鳥啼荘からは、水上駅、あるいは新幹線駅の上毛高原駅まで送迎のマイクロバスを出ているそうだが、理真と私が自家用車での行程を選択したのも同様の理由からとなる。いざというときに備えて〝足〟は多いに越したことはないからだ。それに——。
「そろそろ行こうよ」
空にしたカップをくずかごに入れて、理真が声をかけてきた。私も頷いて、残っていたコーヒーを喉に流し込む。カップをくずかごに放り込んだ私は運転席側に廻る。運転手交代だ。
国道号線から利根川沿いを走る県道号線に入り、ひたすら上流方向へと向かう。目的地までは、車で水上駅から一時間半程度だと聞いていた。まだまだ長い道中となるだろう。
そうして一時間以上も車を走らせた頃、吊り橋にさしかかった。橋長十五メートル程度のコンクリート製で、車もじゅうぶん通行可能な吊り橋だなと思ったが、そもそもマイクロバスで送迎を行っているのだから、車の通行に耐えられる橋が道中に架かっているのは当たり前だ。私はブレーキペダルを踏み、橋のたもとに車を停めると、理真と一緒に降車した。
切り立った崖に架けられた橋のため、橋の下に潜り込むことは難しい。もし〝何か〟あるとすれば、橋の上側になるだろう。理真と私は橋面へと移動した。遙かに望めるのは朝日岳だろうか。 空気が澄んでいて見事な眺望だ。が、私たちが車を降りた目的は、絶景を楽しむためではない。吊り橋というものは橋の下からではなく、上から名前どおりワイヤーで吊り下げて橋を支える構造をしている。このワイヤーが仮に切断されてしまったら、当たり前の話だが橋は崩落する。高欄(手すり)に手をかけて真下を覗き込む。崖の底を流れる川の水面まで目算で五十メートル程度の距離があるが、静かな環境のため、さらさらという水音がここまで届いてくる。視線をワイヤーに戻す。この吊り橋を支えているワイヤーは鋼線を何重にもよじったもので、これを切断するというのは並大抵の作業ではない。専門的な工具や重機なりがなければ、そんなことは不可能だ。普通の犯罪者がやれる作業ではない。そう、〝普通〟の……。
私はワイヤーから離れ、橋そのものを調べ始めた。橋面、高欄、さらにはワイヤーを橋の後方から引っ張って固定している支柱。橋の横から、視界の及ぶ限り橋の下側も覗き見る。何か違和感はないか。不審な物はないか。理真は対岸に渡っていた。崖と吊り橋とを挟んで、私と同様の作業をしている理真の姿が目に映る。私たちが移動手段に自家用車を選んだ理由がここにもある。まさかマイクロバスで送迎してもらっている途中で〝橋に危険物が仕掛けられていないか調べたいので降ろしてもらえませんか〟などと言えるわけもない。
そうして十五分程度を橋の調査に費やしたのち、理真と私は橋の中央で合流した。
「何もないみたいだね」
理真はワイヤーを掴んで揺らそうとしたようだが、女性の非力では——いや、屈強な男性であっても難しいだろうが——当然まったくびくとも動かなかった。私は頷いて、
「何か仕掛けているとしたら、この吊り橋なんて絶好の代物なんだけれどね」
この橋を落としたら、ここから先——ペンション〈鳥啼荘〉——は完全に外界と遮断されてしまうことは事前に調べておいた。
「鉄製で、この太さだしね」理真は直径十センチ近くもあろうワイヤーを見て、「何かするのだとしたら、爆弾で橋そのものを爆破してしまったほうが手っ取り早いかも」
「確かに」
目に付く範囲を調べてみた限りでは、そういった不審物は発見できなかった。過剰に思われるかも知れないが、用心に越したことはないのだ。なにせ、これから理真が戦おうとするのは、爆弾や拳銃程度ならば容易に調達することの出来る相手なのだから。
理真は懐から一通の書簡を取りだした。宛先は理真がもっともお世話になっている出版社の文芸部で〈安堂理真先生〉と名指ししてある。一見したら作家に宛てたファンレター以外の何ものでもない。封筒の裏には差出人の住所氏名が書かれているが、これはまったくのデタラメだと判明している。封入されていたのは三つ折りされた便箋が二枚。その一枚目には、極めてシンプルな一文のみがセンタリングで印字されていた。
〝鳥啼荘に牙が突き立つ蝙蝠の牙〟
二枚目には〝蝙蝠の牙〟が〈鳥啼荘〉なる施設で事件を起こす旨が宣言されており、その実行日は理真が書簡を受け取った日から数えて三日後に指定されていた。
〈鳥啼荘〉とは、群馬県の山中に建つ宿泊施設だと判明した。連絡を入れてみると、その日はちょうど二名分の空きがあるという。作為的なものを感じざるを得ない。理真はすぐにその空きをおさえた。二枚目の書簡には
〝基本的に探偵単独で来ること。ただし、探偵にワトソンなどの協力者がいる場合は、一名に限り同行を許可する〟と併記されていたためだ。注意書きは他にも記されていた。〝この書簡の存在を警察に知らせないこと〟〝現場でも誰にも明かさないこと〟。
これは間違いなく〝狂既の牙〟と自称する不可能犯罪テロ組織からの挑戦状だ。狂既の牙の目的は〝不可能犯罪などの事件を起こすこと〟——いや、これは目的ではなく手段か。彼らの活動目的は〝死の尊厳を高めること〟なのだという。曰く、この世界には、戦争、紛争などの大量殺戮、衝動的な、あるいは無計画な殺人などによって引き起こされる、尊厳なき無意味な死が溢れすぎている。それに対して、不可能犯罪によって齎される死は、特権的な死——尊厳ある死なのだという。〝死〟が人の避けられない宿命である以上、せめてそこには尊厳が与えられるべきである。世の中で不可能犯罪による死者が増えていけば、世界中で発生する〝死〟の総量に対して〝尊厳ある死〟の比率は高まっていく。そのために自分たちは積極的に不可能犯罪を起こし〝尊厳ある死〟を増やしているのだと、こういう理屈なのだ。
常軌を逸しているとしか言いようがない。
狂既の牙の刺客たちは、過去に何件も不可能犯罪などの大規模な事件を起こしており、理真も——イレギュラーな事態ながらも——狂既の牙の刺客と一戦交えた過去がある(「山手線大爆破」参照)。その事件の刺客との対決に勝利したことで、理真も組織から目を付けられてしまったのだ。いつか、こんな日が来るだろうと覚悟はしていたというが、いざ挑戦状を受け取ってみると、さすがに緊張が走った、と理真は言っていた。
吊り橋を落として〈鳥啼荘〉を閉鎖空間化する。いかにも狂既の牙がやりそうなことだと考え、こうして警戒したのだが。
「どうする?もう少し調べてみる?」
R1に戻り、私は理真にペットボトルの水を手渡して、自分でもキャップを開ける。平地に比べて気温の低い高所にいるとはいえ、動き回ってさすがに汗ばんできた。
「そうだね……」
理真がそこまで言ったとき、後方——麓の方角——からエンジン音が聞こえてきた。曲がりくねった山道のカーブから姿を見せたのは、磨き上げられた車体に陽光を反射させた高級車だった。いかにも運転手といった風貌の男性がハンドルを握る運転席のほかは、後部座席に男性ひとりが座っているだけのその車は、減速することもなく私たちの横を通過していった。
「〈鳥啼荘〉のお客かな」
「たぶんね」
私と理真は、吊り橋を渡っていく高級車を見ながら言葉を交わした。間違いないだろう。この先にあるのは鳥啼荘だけなのだ。
ペットボトルの水を飲み終えた頃、再びエンジン音が近づいてくる。先ほどの高級車よりもずっと大きな音だった。果たして姿を見せたのは、一台のマイクロバスだ。バスは、私たちを確認したのか、速度を緩めて停車した。運転席から降りてきたのは、六十代程度に見える女性だった。
「鳥啼荘のお客様でしょうか?」
女性のかけてきた言葉に、そうです、と返すと、
「景色を楽しんでいらしたのでしょうが、早く出発したほうがいいですよ。この辺りは熊が出ま
すから」
忠告のあと、それではお待ち申し上げております、と言葉を残して、女性はマイクロバスを走らせていった。バスの車体側面には〈鳥啼荘〉と書かれており、車内には数名の男女が乗っていた。理真と私も、いそいそと車に戻りマイクロバスを追ったのは言うまでもない。
R1は先行していたマイクロバスにすぐに追いつき、二台はほぼ同時に目的地に到着した。狭く曲がりくねった山道をひたすらに走り抜いた先にあった開かれた土地。そこに一軒の洋風木造建築物が、森の中に隠れるように佇んでいた。これが〈鳥啼荘〉。新緑と青空に囲まれた空間の中、前後左右の森からは、時おり鳥の鳴き声が聞こえてくる。野鳥に詳しい人ならば、今のは何々の声だ、と判別して楽しむことも出来るのだろうが、あいにくと私にはその方面の知識がないため、綺麗な鳴き声だという感想しか持てなかった。
建物前のスペースには一台の高級車が駐まっていた。橋のたもとで私たちの前を通り過ぎていった車だ。マイクロバスはその隣につけ、私もさらにそこに隣接してR1を駐めた。
エンジンが止まったマイクロバスからは、五人の男女が降りてきた。ひとりは私たちに熊出没の警告を出してくれた、六十代程度に見える女性運転手。残る四人は、男性、女性ともに二名ずつという構成で、いずれも二十代後半から三十代半ばといった外見をしていた。皆がデイパックなりの荷物を担ぎ、あるいは手にしており、ひとりの女性は首からカメラ——プロ仕様とおぼしき一眼レフ——を提げていた。理真と私も降車して、互いに会釈をしあう。そこに、建物——鳥啼荘——の玄関ドアが開かれ、屋内から二名の男性が顔を見せた。高級車に乗っていた人物だ。
「申し訳ない」と後部座席に座っていたほうの男性が、「少々早く到着してしまったもので、中で休ませてもらっていましたよ」
「いいえ、かまいませんよ」
マイクロバスの運転手が、そう応じて頭を下げた。
「もう、帰っていいぞ」
男が、斜め後ろに立っていた運転手の男性に声をかけ、高級車へ顎をしゃくった。運転手はぺこりと一礼して玄関から続く短い階段を駆け下り、高級車の運転席に乗り込むと、窓越しに私たちにも一礼くれてから高級車のハンドルをとり回し、来た道を引き返していった。どうやら宿泊するのはこの男性だけで、もうひとりは送迎のためだけの運転役だったらしい。と、そこに、高級車と入れ替わるように一台の車が滑り込んできた。自家用車ではなくタクシーだ。停車したタクシーの後部座席ドアが開くと、車内からひとりの女性が降りてきた。ドアが閉まるとタクシーはすぐにUターンして走り去っていく。女性はかけていたサングラスを外し、鳥啼荘の建物と、次に私たちに視線を向けた。
「いち、に……」マイクロバスの運転手は人数を数え、「これで全員ですね」と頷いた。そういえば、鳥啼荘の宿泊定員は八名だった。マイクロバスの乗客四人、高級車の男、タクシーの女性、理真と私、これで八人。
「では、チェックインを行いますので、ロビーまでお願いします。あ、申し遅れました、私はここ鳥啼荘の管理人の、榊原恵と申します。三日という短い期間ではありますが、どうぞよろしくお願いいたします」
マイクロバスを運転していた女性が頭を下げた。
ロビーへ移動して八人全員がチェックインを行う。部屋の鍵は全員の作業が終わってから渡されるらしく、先に済ませた客もそのままロビーに待たされた。全員のチェックインが終わり、榊原から部屋の鍵が渡される。建物のレトロな外見とは裏腹に、受け取ったのはカードキーだった。
カードのデザインは全員同じで、部屋番号を示す数字のシールが貼られている。
「お夕食は午後六時から九時までですので、お時間内に一階の食堂までお越しください。朝食は午前六時から九時です。昼食以降の予定は、またそのときにお知らせいたしますので」
榊原が一礼して、フロント奥に見えるドアに向かいかけた、そこに、
「みなさん」声がかけられた。「どうです、自己紹介でもしませんか?」
いち早く到着していた男性からのものだった。さっそく荷物を手に階段へ向かいかけていた何人かも、その言葉で足を止めた。男性は続ける。
「この〈鳥啼荘〉は、このとおり山奥に建つ一軒宿で、どこかへ観光に出るということも出来ませんから、宿泊期間のほとんどをここで過ごすことになるわけです。こうして同じ日にここへ泊まることになったのも何かの縁だと思いませんか。せっかくですから、お互いを知り合い、友人に——せめて鳥啼荘にいる間だけでも——なりたいと思うのですが、どうでしょうか?」
顔を見合わせる宿泊客が多い中、それはいい考えですね、と賛同した人物がいた。タクシーで到着した女性だった。結果、誰もその場を立ち去らず、異論も出てこないのを見て取ると、隗より始めよ、とばかりに、発言者の男性から順に自己紹介をすることとなった。
1号室…糸矢正夫 30歳 男性 舞台役者。
2号室…鈴木美緒 年齢非公表(推定30代半ば)女性 主婦。
3号室…名護 渡 26歳 男性 派遣社員。
4号室…麻生静香 29歳 女性 広告代理店勤務。
5号室…理真。
6号室…木戸歩美 32歳 写真家。
7号室…私。
8号室…杉村治郎 38歳 実業家
管理人室… 榊原 恵 65歳 鳥啼荘の管理人。
フロントに置かれていたパンフレットの館内見取り図内の客室に、私は各宿泊客の名前を書きこんでおいた。何かの役に立つだろう。
自己紹介をしようと言い始めた男性は、8号室に泊まる杉村だ。実業家というだけあってエネルギッシュな人物だ。鍛えているらしく体躯もなかなかのものがあり、体重も八十キロは超えているだろう。プロレスラーだと言われても信用する。
1号室の糸矢は、役者だそうだが、自身曰く、舞台演劇がメインで映像作品にはほとんど出演経験がないため、自分のことを誰も知らなくても当然、ということだった。
2号室の鈴木は、タクシーで到着した女性だ。どこからの乗車か知らないが、下手をしたら数万円単位の支払いになったのではないか?目立たないがブランド物で身を固めている。
3号室の名護は、精悍な好青年といった感じ。体格は細めだが、緩めの服装の下には鍛えられた肉体があると私は見た。杉村がレスラーなら、名護は拳法使いといった印象だろうか。
4号室の麻生は、二十九歳という年齢よりはずっと若く見える。切りそろえられたショートカットも童顔をさらに若くみせる効果を与えている。大学生といっても信じるだろう。
6号室の木戸は、スポーツシャツにデニムと服装こそアクティブだが、運動は苦手そうな小柄で線の細い女性だ。彼女だけは「野鳥の撮影」と宿泊目的を口にしていた。
管理人の榊原は、かわいらしいおばちゃんといった感じ。鳥啼荘へは宿泊客があるときだけ勤務しており、普段はみなかみ町内在住だという。
榊原からは、理真が5号室、私が7号室をそれぞれあてがわれた。当然、「安堂理真」と、その友人の「江嶋由宇」と私たちも自己紹介をする。理真が職業を〝作家〟と言ったときには、写真家の木戸だけが「聞いたことある」と反応を見せただけだった。
自己紹介後、私は改めて宿泊客たちを見渡した。この中に……いるのか? 〝蝙蝠の牙〟が? 過去の〝狂既の牙〟のやり口からして、その可能性は高いと見ている。狂既の牙は、自分は遠方の安全な場所にいながら現場に指示を出す、といった胡乱な手段はとらない。これまでに彼らが引き起こした事件においても、犯人——狂既の牙の構成員——は必ず現場にいて、いち容疑者、関係者として振る舞っていたのだ。彼らなりの、超犯罪者としての矜持なのかもしれない。
狂既の牙の刺客の存在と同時に、このことを誰にも明かせないことも歯がゆい。送られてきた書面にその旨は記載されている。これを破ったらどうするとまでは書かれていないが、愉快な結果にならないことは確実だろう。せめて管理人の榊原にだけこっそりと、とも考えたが、彼女が〝蝙蝠の牙〟でないという保証はないのだ。可能な限り警戒するしかない。
自己紹介を終えると、宿泊客たちは階段を上がった。鳥啼荘の客室はすべて二階にあり、全部で八部屋。部屋番号は廊下を挟んで奇数と偶数に分かれる形となっている。カードキーはスリットに差し込むのではなく、ドアノブの横にあるカードリーダーに読み取らせる方式だ。非接触式のため、一センチ程度までカードを近づけたところで、カチッと小さく解錠音が鳴った。室内に入りドアを閉めると同じような音がした。おまけにオートロックだ。
荷物を部屋に置くと、私はすぐに廊下へ戻った。ちょうど理真も5号室から出てきたところだった。私たちに自室でゆっくり休むという選択肢など与えられていない。蝙蝠の牙の凶行を防ぐため、警戒を怠るわけにはいかないのだ。
私の向かい、6号室のドアも開いた。出てきたのは当然、その部屋の宿泊客、木戸歩美だ。背負っていたデイパックを下ろしただけで、首からは一眼レフを提げたまま。
「木戸さん、これから野鳥の撮影ですか?」
訊いてみると、
「そうです、ええと……」
「江嶋です、江嶋由宇」
「ああ、江嶋さん。そうです、この鳥啼荘は、その名のとおり、周辺は野鳥の宝庫ですからね」
木戸が笑顔を見せたところで、さらに他の部屋のドアも開き、1号室からは糸矢正夫、8号室からは杉村治郎が姿を現した。私たちに会釈をして、階段に向かいかけた糸矢に、
「糸矢さん、よろしければ、ロビーでお茶でも飲みませんか」
理真が声をかけた。が、
「ああ、せっかくですけれど、これから散歩に出ようと思いまして」
「でしたら、ご一緒しませんか?」さらに声をかけたのは木戸だった。首から提げたカメラを持って、「私も野鳥の撮影で外に出るので」
「いいですね」
糸矢が承諾したところに、
「私も、ついていっていいですか?」
近づいてきた杉村が同行を願い出ると、木戸、糸矢、双方も諒解した。すると理真も、
「では、私もいいですか?」
もちろん、と外出組の三人は頷いた。江嶋さんも、と木戸は誘ってくれたが、運転での疲労を言い訳に遠慮した。あちらは理真に任せておこう。まだ客室には、名護、麻生、鈴木の三名が残っている。この三人のうちの誰かが蝙蝠の牙で、私たちが外出している隙を狙って凶行に及ばないとも限らないからだ。理真と私の二人ともが建物を留守にするわけにはいかない。理真をひとりにして心配だが——向こうも同じことを思っているだろうが——ここは仕方がない。
理真たちが階段を下りていく音が聞こえなくなった頃、今度は2号室のドアが開く。私は、さも今部屋から出てきたふうを装って、廊下に立った鈴木と目を合わせた。
「足音が聞こえたけれど、皆さんは一階へ?」
「ええ、糸矢さん、木戸さん、杉村さん、それと理真の四人が」
「ロビーでお茶でも?」
「いえ、木戸さんが野鳥の撮影で外に出るというので、それに同行して」
「そう……」
鈴木は何か考え込むような表情になった。そこに、3号室、4号室のドアが間を置かずに開く。
「名護さん、麻生さん、外出されるんですか?」
その動向を探るため、私は訊いた。
「いえ」とまず、3号室の名護が、「ロビーで何か飲み物をいただきます」と答えると、
「私も、そのつもりで」
4号室の麻生も言った。
「……じゃあ、私もそうしようかな」
少し考えたあと、鈴木も屋内に留まることにしたらしい。ちょうどいい。外出組と待機組が半数に分かれることになる。監視、警戒するのに好都合だ。当然、私も三人についていき、ロビーでお茶をいただくことにした。
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