「ハードボイルド」についてあれこれ

「ハードボイルド」という言葉を聞いたとき、どのようなイメージを思い浮かべますか?
バーでお酒を飲み、煙草を燻らす中年男性でしょうか?
銃弾や拳が飛び交うアクションシーンでしょうか?
それとも、軽口や独特の比喩を吐いてやせ我慢をする人物でしょうか?

小説のジャンルとしての「ハードボイルド」は、もともとアメリカのパルプ雑誌「ブラック・マスク」に掲載・連載されていたキャロル・ジョン・デイリーの私立探偵ものであるレイス・ウィリアムズ・シリーズに始まります。もっと源流をさかのぼれば、西部劇や『地下鉄サム』、「義賊ラッフルズ」などにも派生するのでしょうが、ここでは前述のようにしておきます。

一九二〇年前半という本格ミステリ黄金期の黎明期に、己の頭脳ではなく行動を通して事件の解決を図る「行動派」の探偵が生まれたわけです。これはシャーロック・ホームズや「ホームズのライバルたち」へのアンチテーゼ、という意味を持っていたことでしょう。そして「ブラック・マスク」誌から、ダシール・ハメットという天才が現れ、『赤い収穫』や『マルタの鷹』などのミステリ史上に輝く傑作によってパルプ・フィクションのジャンルのひとつに過ぎなかった「ハードボイルド」を文芸の域にまで高めました。そのハメットの作品の大まかな特徴として、徹底した客観描写と酷薄ともいえる非情さがあげられると思います。ここでは、ハメット自身の社会や人間を見る視線が、作品において主人公の視線として表れています。また、ハメットが処女長篇『赤い収穫』を上梓したのは一九二九年ですが、これはヴァン・ダインが『僧正殺人事件』を、エラリー・クイーンが『ローマ帽子の秘密』を出版した年でもあります。本格ミステリと「ハードボイルド」の発展は車輪の両輪のようなものだったのでしょう。

そのハメットに触発されて、本格ミステリ黄金期の現状に不満を持っていたレイモンド・チャンドラーはフィリップ・マーロウというキャラクターを作り出し、現在「ハードボイルド探偵」といわれたときに人々がイメージするような人物の典型例を築き上げました。このあたりのことは、チャンドラーの本格ミステリ黄金期についての批判的批評である”The Simple Art of Murder”(「単純な殺人芸術」)を読めば何かわかるかもしれません。また、チャンドラーも「ブラック・マスク」誌に作品を掲載していました。チャンドラーのフィリップ・マーロウものに通底するのは、リリシズムやセンチメンタリズムです。これもチャンドラー自身の社会や人間を見る視線も反映されていることなのだと感じます。

「ハードボイルド」を書くうえでのコンセプトや文体についてはハメットを範としたチャンドラーでしたが、「ハードボイルド」としての作品の内容は両者でかなり異なる、といってもいいでしょう。描写においては、作品ごとに一人称や三人称を駆使したカメラ・アイ的記述で淡白に描写するハメットと、長篇では一人称を用い、乾いた文体ながらもウェットな文章を紡ぐチャンドラー、という違いがあります。また前述したように、とにかく人物が非情なことが多くその内面描写がほぼないハメットの作品と、ニヒリズムに傾きながらも人情味があり、マーロウの一人称による独白のような描写があるチャンドラーの作品、という違いもあります。これらはあくまで一面的な対比ですし、まだまだ違いは探せるでしょう。

ここまで、ふたりの作家が書いているジャンルを「ハードボイルド」と呼んできましたが、このふたりは「ハードボイルド」というジャンルを意図して書いている、という意識があったわけではなく、自分たちが書いているものは「ミステリ」というジャンルである、と考えていたのだろうと思います。クイーン、すなわちダネイとリーは、ハメットの作品について「新たなミステリのジャンルを書いたわけではなく、新たなミステリの叙述方法を発明した」という趣旨のことを述べています。それに、ハメットは作品において「謎解きの精神」を忘れていませんし、アントニイ・バークリーの作品を高く評価する、ということもおこなっています。また、「謎解きの精神」を忘れていないのはチャンドラーも同様です。前述の”The Simple Art of Murder”を読めば、チャンドラーが批判していたものも「ミステリ」であれば、彼が書きたかったものも「ミステリ」だった、ということがわかると思います。これは余談ですが、クイーンは評価した作家や作品も本格推理一辺倒というわけではなく、様々なミステリのサブジャンルを読み、それぞれの優れたものを高く評価しています。これは翻訳されたクイーン編のアンソロジーを読んでみても一目瞭然でしょう。

ハメットとチャンドラーによって「ハードボイルド」というジャンルは完成されてしまったように思えますが、ここで日本における「ハードボイルド」受容の仕方を重ねると、「ハードボイルド」における「もうひとつの本流」、あるいは「忘れられた本流」が見えてきます。その受容の仕方とは、「軽ハードボイルド」というサブジャンルをある時期の日本の翻訳ミステリに定着させたことです。

現代のミステリ読者には、「軽ハードボイルド」という言葉は耳慣れないかもしれません。始めに書いたように、「ハードボイルド」とは本来パルプ雑誌で軽く読み捨てられるようなジャンルだったわけですが、この「軽ハードボイルド」とは「ハードボイルド」のパルプ・フィクションとしての特質を受け継いだジャンルなのです。私が記憶する限りでは、現状でこの「軽ハードボイルド」作品は新刊書店でほぼ手に入らないと思います。手に入るのは、論創社から出版されているフランク・グルーバーのジョニー&サム・シリーズくらいでしょうか。

「軽ハードボイルド」の特徴として、軽く読めて、ああ面白かったで終わり、三日後には面白かったという記憶しか残っていないような、非常に娯楽性が高いジャンルであるということがあげられると思います。「軽ハードボイルド」は、翻訳された作品でも玉石混交ではありますが、「玉」に当たったときには、まるでパルプ・ノワールにおいてデイヴィッド・グーディスやライオネル・ホワイトの作品を引き当てたかのような気持ちになります。

冗長な文章になってしまいましたが、要するに「ハードボイルド」が持つ本来の一面であったパルプ・フィクションという性質を、そのまま継承してブラッシュアップしたものが「軽ハードボイルド」と呼ばれるジャンルであり、これも「ハードボイルド」の本流のひとつである、といえるわけです。

年月を経るにつれ「軽ハードボイルド」は廃れていき、ハメットやチャンドラー、ロス・マクドナルドが描くような「ハードボイルド」が「正統派」とされています。さすがに現在において「軽ハードボイルド」を「正統派」と呼ぶことはしませんが、「軽ハードボイルド」を現代においてもう一度省みることも面白いのではないか、と感じます。

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