古典ミステリの先人たちと文学フリマへの想い

 古典ミステリって、一体いつからいつの時代までの作品のことをさすのでしょうか(なにしろ、一般文芸では、古典といえば江戸時代以前の作品を指し、明治以降の作品は近代文学と呼ぶものですから……)。戦後の横溝正史作品や高木彬光作品あたりも、古典ミステリに入れていいのかなぁと悩みながら、曖昧な定義のまま、古典ミステリについてお話ししてゆきたいと思います。

 概して、古典を愛する心は、「面白い・面白くない」というエンタメ的基準と、少しばかり違っているように感じます。古典を愛するとは、現在の争乱から離れて、草木の生い茂る静かな山寺に迷い込むようなもので……。枯山水の苔むした石を、しみじみと愛でる落ち着いた心によく似ています。同じように、一見したところ、地味で面白みのない古茶碗を鑑賞しているうち、その味わいの深みに、だんだんのめこんでゆくような心境とも似ていると思います。それ以上に考えられるのが「先人への想い」です。

 古典ミステリといえば、至高はなによりもポーとドイルだと思います。あの『モルグ街の殺人』の謎の恐ろしさ……。また、ドイルのホームズ探偵譚にどれほど夢を抱いたことか……。それから、黄金時代には、アガサ・クリスティがいて、ジョン・ディクスン・カーがいて、ヴァンダインがいて、クロフツがいる。彼らがいるからこそ僕らがいる。そう考えてみると、先人たちが揺らしてくれるゆりかごの中に眠る赤子が僕たちなのですね。

 赤子である僕たちが目を覚まし、ゆりかごから恐る恐る見上げると、先人たちが優しく微笑んで見下ろしているというわけです。

 それって本当に幸せなことですよね。

 さて、僕はこれまで、ミステリの先人たちが築いた偉業の末に、自分がいるってことをすっかり忘れてしまっていました。

 そんなある夜、僕はふとジョン・ディクスン・カーの『三つの棺』の中の〝密室の講義〟のとある会話を思い出しました。

 フェル博士の密室講義が始まろうとするその時です。他の登場人物に「なぜ推理小説を論ずるのですか?」と尋ねられたフェル博士はこのように答えます。


「なぜならばだ」と、博士はずばりと言った。「われわれは推理小説の中にいる人物であり、そうでないふりをして読者たちをバカにするわけにはいかないからだ」
(ジョン・ディクスン・カー『三つの棺』三田村 裕訳 早川書房)


 この直後の台詞でも、フェル博士は自分たちのことを「書物の中の人物たち」と呼んでいます。フェル博士は、自分を書物の中の人物だとしっかり自覚しているのです。僕はこのフェル博士の悟り得ているところは一体全体、何だろうとその時、考えました。反省すべきことに、フェル博士に比べ、僕は自分が何者なのか知らぬまま、今日まで生きてきたように感じます。僕は、フェル博士のようには、自覚的に成り得ていないのです……。

 その時、こう思いました。ミステリ書きとしての僕は、カーやクリスティの生み出した大きな流れの末にいて……カーやクリスティの残した足跡の上で、ミステリを書いている存在なのだ、と。僕は時々、フェル博士のように自覚的になりたいと願います。自分が何者なのか、知りたいと思うのです。僕は残念ながら、フェル博士のような「書物の中の人物」ではありません。「書物の外の人物」にすぎないのです。それでも「書物にたずさわる人間」であり続けたい。カーやクリスティといった先人たちの足跡をたどり、時々、それに逆らったり、越えようと抗うミステリ書きでありたい、と心から願うのです。古典を愛する心とは、おそらくこうした先人たちへの気持ちなのでしょう。

 僕は、ネット上に小説を投稿してきましたが、来たる12月1日に文学フリマ東京39に初参加いたします。自作の小説を手売りするのは、高校の学園祭ぶりのことですので、楽しみです。それと共に緊張もしています。緊張した時には、フェル博士のあの特徴的な「へっ、へっ、へえっ!」という笑い声を思い出して、癒されたいと思います。

 文学フリマ東京39は、ビッグサイトで開催されるそうで、今までにない壮大な規模だということです。

「新生ミステリ研究会」く-21〜22
「名探偵、皆を集めてさてと言い」く-23

 新生ミステリ研究会のメンバーは、こちらのブースで出店いたします! おいでになる方がいましたら、どうぞよろしくお願いします!

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