コラムを更新しました:物語に忠実な物語を作るということは
物語に忠実な物語を作るということは
人の生活を覗き見がしたい。誰もがその欲求を、抑えられずにいる。
手元にある物語の全ては、誰かの世界を覗いているものだと言っても間違いではないだろう。
犯罪や捜査を覗き見したい。
被害者は絶海の孤島、ポイントネモにある密室にいた。頭には盲管銃創の跡。吹き口が爆発したラッパみたいに、弾けた後の鳳仙花のように弾けている。生活反応から死後三分以内。けれどここに来たのは乗ってきた船が難破漂流した自分たちだけ。密室には拳銃もない。氷の弾丸でもない、けれど被害者のポケットには小さな使い捨て懐炉と、不自然な向きに空いた壁の穴。拾い上げた床材は、部屋の外側に転がっている。床材の転がる茂みには足跡がある――
探偵の脳みその中を、犯罪者の脳みその中を、覗き見したい。
誰かの恋愛を覗き見がしたい。
安っぽいナイロンで包まれた、特段趣味がいいわけでもない温室栽培された花を持ったイケメンが、海辺の砂浜の夕焼けで、あるいは夜の帷の下、丸い月の下で歯の浮くようなセリフをクラスで二番目くらいに可愛いくらいの美女である私に告白し、きっとささやかで安定して何もなくても幸福な人生の始まりとなる証、それを受け取っているシーンを覗き見したい。
誰かのセックスの覗き見がしたい。
生活感のあるベッドのくしゃくしゃの温度感が伝わってきそうなシーツの上で、薄い肋の浮いたひ弱そうな、ほんの少し力を入れただけで壊れてしまいそうな手首を掴んで、恐怖に耐えながらも自分を受け入れてくれるシーンを覗き見したい。
誰かの青春を覗き見したい。
色とりどりの友人とほんの少しだけ暗い過去。他人に言えば笑われてしまうような小さなコンプレックスを抱えて生きている少年が仲間と一緒に手と手を取り合って一緒に一つのことを成し遂げているところを覗き見したい。
誰かが力あるものを騙しているところを覗き見したい。
ふんぞりかえって仕事もろくにしていないか、或いは貧民をだまくらかして得たような泡銭を膨らます悪徳な男、それも顔が良くて家柄もいいような男。そいつに恥をかかせたい。家の名前に泥を塗り、今まで毎日大事に大事に育ててくれていた親から見放されてどうしようもなくなって浮浪者に頭を下げながら腐ったパンの一切れをえづきながら頬張るところを覗き見したい。
覗き見たい! ああ、昨日覗き見た人生に比べて、なんて人生はちっぽけでつまらないんだ。毎日朝七時に起きて電車に乗って仕事に行って、他の誰でもできるなんでもいいことを苦しみながらやって、得られる賃金は雀の涙。都合十時間以上拘束されてるのに、日々同じことを繰り返し続けている。そうして、どんどん時間だけが過ぎていく。
誰かどうにかしてくれ! できないならせめて目だけでも他の人生に向けさせてくれ!
こうして他人の人生に共感し、他人の人生に無責任な期待を求めている間だけ救われるんだ!
この自分を矮小化してくれ! 価値を最小化してくれ!
そんな風な叫びが、どこからともなく聞こえませんか?
ようこそ。窃視癖を持つ、知性体人間、或いはそれを理解する知性の皆様。
ここでは人間の変態欲求を理解すれば宇宙人だろうと、賢い豚だろうと、賢い虫だろうバクテリアだろうと問いません。
あなたは何を覗き見したいの? 今回のテーマはそれ。
おはようこんにちはこんばんはおやすみ。
ミス研一の後輩、安条序那です。
我々は小説という媒体を読むとき、映画を見るとき、漫画を読むとき、アニメを見るとき、知らず知らず覗き見させられていますよね。
ある登場人物の感じていることを、見ている景色を、匂いを、光の温度を、印象を。
我々はレコーディングエンジェルになって、こっそりその内心をのぞいていますよね。
そしてそれが、なぜか、面白い。
ニーチェのあまりにも有名な文句を知らない人はあまりいないでしょう。
「深淵を覗くとき、深淵もまたあなたを覗いている」
つまり小説をのぞいているあなたもまた、小説とその作者、編集者にのぞかれているのです。
不思議ですよね。我々は能動的に小説に対して支配的に行動しているのに、目の前の登場人物に頭蓋骨の中身を逆に覗かれているのです。
覗き見だから、興味がなければ覗きをやめるでしょう。
でも、覗き見をやめることができなくなってしまう景色もあるはずです。
この覗き見は、掴んで離してくれない。
うっかり見すぎてしまう。
見すぎて、いつしか目が合ってしまった人もいるはずです。
これは映画の方がわかりやすいですから、こんな感じで聞いてみましょう。
トゥルーマン・ショーで風呂のおじさんと一緒に両腕を高く突き上げた人は?
ファイト・クラブでカメラと一緒に心まで各国の空港に飛んでいった人は?
シャッター・アイランドでカメラと一緒に銀色の手術器具を見て頭を抱えてうずくまった人は?
キャビンでカメラと一緒になんだかどうでもいい気分になって呆然と引いていくカメラと一緒にソファに背中を預けた人は?
ミッドサマーでカメラと一緒に燃える家と毛皮の匂いを感じ取った人は?
ショーシャンクでカメラと一緒に空へ叫んだ人は?
ない人は一番感動した映画で一番自分が物語の一部となったシーンを思い出してくれれば良いでしょう。
重要なのは、そのとき、我々は登場人物の中に入ったわけじゃないということです。
だって我々は語られた分しか知らないし、彼らの最後の記憶の鍵だって持ってない。それはこっそりと明示されているけれど、回収されるまで答えがわかるものではありません。(特に作者がわかりやすく配置して読者にサービスしている場合でなければ)
でも我々はずっと感じていますよね。登場人物の合わないはずの眼球がこちらを向いていることを。
目が合い続ける奇妙なトリックアートのように、ある一点、彼の生い立ちが説明され、同時に誰にでもある一般的な経験で同調した瞬間から。(彼はずっと自分の服のセンスが無いことを気にしている。なのにずっとダサいとわかっているチェックシャツを買ってしまう/彼女は自分の骨格的にショルダーオフのワンピースが似合わないと知っている。でも毎回憧れて買って、いつも鏡の前で広い肩幅を見て落ち込んでしまう。クロゼットにはワンピースがいっぱい)
エピソードはなんでもいい。でも、そこからずっとその人物と目が合うようになる。
精神的な同調が完成する。
すると我々は目に見えないエンジェルのようにずっと彼の周辺を飛び回り、内心に入り込み、それを覗き見し続けている。
しかもそれはサスペンスで、スリリングで、エロティックで、インテリジェンスな方がいい。
そっちの方が覗き見の欲を満たすにはいい。プライドと欲求を満たしてくれるから。
恐ろしい窃視癖、出歯亀根性、とんだ助平野郎。そう、我々がやっているのは登場人物の生活に透明人間になって窃視行為しているのとそう変わらないのです。
そう思いながらも、見ることを辞められないわけで。
見続けてしまう作品は、そういう読者の窃視癖に上手に語りかけていますよね。
端的にいうとエロい(目が離せなくなるような)進行をしているわけです。
モチーフをカノン形式で繰り返すのも一つだし、同一のキャラクターの精神的足回りが変わるのもそう(彼はチェックシャツを余計に買い込むようになった。わかったのだ。違った。チェックシャツがダサかったのではない。自分がただダサかったのを、チェックシャツのせいにしていただけだったのだ。彼は古着の本場、ベトナムはハノイに向かった。狙うのは1950年に作られた、ポロのマドラスだ。彼の瞳には決意が宿っていた/彼女はワンピースを自分で捨てた。家の裏の河川敷で、夜中にガソリンをかけて燃やした。もう彼女は憧れる必要は無くなった。両肩から腕を失ったからだ。するとなぜか、綺麗に着られるようになったはずのワンピースが途端にただの似合わない布きれに見えた)。
読者の99%は知らなさそうな知識が当然として使われるのもそう。
これは私事ですが、最近は書くときのイメージとして、ストリップショーを想像しながら書くことが多くなってきました。
皆さんはストリップショーを見にいったことがありますか?
僕は家の近くに幾つもあるんです。
寂れた一角にある汚い小劇場です。キャストは綺麗です。当然ではありますが。
大概そういうところは「○○劇場」を名乗っており、実際地方の小劇場のような小さな舞台で公演が行われます。音楽に合わせて踊ったり、ポールで回ったり、何十年か前の作品で見たようなどこか昭和な空気感で進行するわけですが、どこの劇場でもストリップ(全裸)は、最後の最後に行われるものです。
最初の演目ではまず、ストリッパーの女性としての価値を高め、様々な角度から検証させ、味見をさせ、焦らし、まるでそこにある女体が女そのものであるように錯覚させ、最後の最後でいわゆる盆と呼ばれる円形台で布一枚を脱いで、ここまでで高めた「価値」を解放する。そこが最高の盛り上がりになり、客は満足するという構成です。
さて、ここで僕は考えてみます。
ストリップショーの一番の見どころ、一番のうま味というのは当然ストリップにあるわけです。
でも彼女たちが最初から裸だったら?
全身を見せつけながら踊り、盆の上でそれをずっと披露し続けたら?
客はすぐに満足して帰るでしょう。
高揚感はあるでしょうが、当然盛り上がりに欠けますね。ショーの減り張りが消えてしまいました。
衣装を着てのダンスも、ポールも、客の目線はエロいものです。際どい衣装の隙間から、見えるか見えないか、そのギリギリのエロティシズムに酔っているわけです。
そう。ここでテーマに戻りましょう。
窃視癖です。
これは窃視癖。
みんな覗けそうで覗けない、その隙間の幻想を見ている時が一番興奮しているのです。
例えばある演者さんの演技後の客とのやり取りを思い出してみます。
ショーが終わった後の演者さんが、客席に少しだけ寄って、そこでアフターコミュニケーションをするシーンがありました。
劇場は劇場、指一本でも触れれば風営法違反なわけですが、触れずとも差し入れをすることはできるわけです。そこで行われたのが、演者さんへ冷たい飲み物缶を転がして、それを汗濡れの演者さんが体で受け止めて、缶の温度に背筋をびくっと震わせるというたいへんエロい交流。
擬似的な接触経験ですね。
これはいわゆる“常連の遊び“なわけですが、上手な窃視癖の満たし方でもあります。
同じフォーマットで構成されたショーに対しての、違う切り口から楽しみかたであり、満たしたい欲望に対する違う切り口からの「答え」なわけです。
が、重要なことを忘れてはいけません。
これは「解決」ではないということです。演者に興奮していた客が演者に触れられたわけではない。擬似的な解決を見ただけなのだということです。
「問題」は残ったが、「解決の一端」は見えた。
ではこの問題が解決されたらお客はどうなるか? ショーに来る頻度が下がる、あるいは来なくなるかも?
Q.なぜそう思った? A.根本的に満足してしまうから。
Q.満足したら? A.本を閉じれば良い。
窃視癖とは、欲求不満と心得たり。
そう、満足させては駄目、しかし不満を募らせても駄目。
客が何を求めているか、それを解決せずどう納得させるか。
これは小説に還元すれば、ページを捲らせる圧倒的な重力にあたります。
客が見たいのは何か? 大きな目標は作者が設定するものですが、短期的に見たいのは?
どの順番で「問題」を積み上げる? どうやって一瞬「満足」させる?
観客にどのタイミングで「見えそう」なスリルを味わせる?
読ませ方には色々あるでしょうが、
読みたい作品にするためには、
あなたが覗き見したいものを、
覗き見したくなるように、
構成するのです。
ストリップショーのように!
読者の前で服を脱げ!
窃視癖を満たしてやるんだ!
倫理観に満ちた脳みそに覗き見の快楽を叩き込め!
覗かせろ! 卑猥な脳みそに叩き込め!