新生ミステリ忘年会_2025
コラムを更新しました:『十戒』と『方舟』を比較してみる
1 『文学フリマ物語』に掲載
2026年5月20日、『文学フリマ物語 なぜ人は創作に魅せられるのか』が株式会社ウェッジより発行された。
1冊丸ごと『文学フリマ』をテーマにしたおそらく初の書籍である本作。5月4日の文学フリマ東京(幕張メッセ)の会場で先行販売をされ、今は全国の書店に並んでいる(6月初旬の時点で、池袋のジュンク堂では一階の目立つ場所に平積みとなっている)。
著者は、共同通信文化部の記者である鈴木沙巴良さん。実は、鈴木さんは、早稲田大学の第一文学部卒で、在学中に、なんと第一回文学フリマ(2002年 青山ブックセンター)に参加した経験があるとのこと。
ゆえに、決して物見遊山ではなく、文学フリマの歴史を知る〈当事者〉の視点で、文学フリマの今昔、さらに未来が語られている。滑らかな文体からは、文学的なセンスも滲み出ている。
文学・文化・社会の中における文学フリマの位置付けを探求する本作は、すでに文学フリマに興味がある方はもちろん、文学フリマを全く知らない人にとっても学びが多いものと思う。ぜひとも手に取っていただきたい。
ところで、なぜ新生ミステリ研究会のコラムで非ミステリ作品を取り上げているのかといえば、そこにはちゃんとした理由がある。なんとこの『文学フリマ物語』に新生ミステリ研究会が登場しているのである。
ページ数にして4ページ分も取り上げられている。なんとも光栄なことだ。
新生ミステリ研究会が取材を受けたのは、2025年1月の文学フリマ京都のことであり、鈴木さん曰く、「なんだか賑やか」だったために取材対象に選ばれたということだ。取材対応は、満を持して、庵字会長が担当した。
『文学フリマ物語』において、新生ミステリ研究会がどのように扱われているかについて気になる方は、是非とも作品を手に取ってもらいたい。
2 なぜ紙の本なのか
以下では、『文学フリマ物語』内で考察されている問題・事象について、僕なりの考察を加えたい。
まず、はじめに、WEBメディア全盛の時代に、なぜ〈紙の本〉を売る文学フリマが盛り上がっているのか、という問題である。
このことに関して、本作に興味深い記述があるので引用をする(なお、「ゆうあんさん」「高瀬隼子さん」は本作でインタビューを受けている作家さんの名前である)。
「ゆうあんさんや高瀬隼子さんは、自分の作品が誰かの本棚に置かれることの感慨を語った。それは、本という物に込められた『生きた精神』が、遠く離れた場所で他者に読まれることによって蘇ることへの感慨であり、根本的には自らの死後も存在しうることへの感慨ではないだろうか。人はインターネットに書き込んだ文書に対しては感じることができない永続性を、物である本には感じることができる(346ページ)」
これはなかなか逆説的である。
普通に考えれば、紙に書かれた情報よりも、ネット上の情報の方が〈永続性〉は高いと考えられるからだ。紙は燃えれば無くなってしまうし、ネット上のデータに比べれば複製しにくい。政治家の何十年も前のSNSへの投稿が《デジタルタトゥー》として掘り起こされることからも示されるように、ネット上の情報の方が耐久性が高いように思われるのである。
もっとも、紙に書かれた情報の方が〈永続性〉が高いという立論もあり得る。たとえば、過去にフロッピーディスクというものがあり、当時はこのディスクに情報を入れていれば永遠に失われないと思われていたが、今はどうだろうか。フロッピーディスクを読み込めるパソコンがもう存在しないため、ほとんど誰も見ることができない。
同様に、今ネット上にある情報も、何世代も経て媒体が変容すれば、見れなくなってしまうことが考えられる。
他方で、本に書かれた情報は、そこに書かれている言語が読み解き得るものである限り、何世代後の人類にも届けられる。現に『魏志倭人伝』も『解体新書』もそうだったのだ。
とはいえ、本作で引用した部分が伝えたいのは、そういう技術的な話ではないと思う。『感慨』という表現が繰り返し用いられることから分かるとおり、ここで主眼が置かれているのは、感覚であり、精神だろう。
たしかに、ネットに書かれた文章よりも、紙に書かれた文章の方が重みがある気がする。読まれる側からすると、ネットにアップした小説に100回アクセスされるよりも、本を1冊買ってもらえた方が、自分を評価され認められた気がする。『誰かの本棚に置かれる』ことまで想像すると、それがたとえ1冊だったとしても、それだけで書いた甲斐があったと思える。
そういう紙の〈特別さ〉があることは否めない。
他方、今までの話は、主に書き手目線である。文学フリマでいうと、出店する側のインセンティブだ。
では、読み手――文学フリマのお客さん側はどうなのだろうか。
一つには、上で述べた紙の〈特別さ〉は、お客さん側にも共通する感情であるように思える。ある小説をネットで読むのと、紙の本で読むのとでは、没入感も違う。もしも作者を応援したいという気持ちがあるのであれば、紙の本を買った方が、作者を直接喜ばせることができるし、本棚に紙の本を置くのは最高の〈推し活〉だ。
ただ、僕は、それよりも本質的なインセンティブが、お客さん側にあると考えている。
それは、積極的に「紙が良い」というよりは、「ネットに辟易している」というものではないだろうか。
インターネットの黎明期には、ネットの世界は、文字通り、〈自由市場〉だったのだと思う。あらゆる人が作ったあらゆる創作物が、対等な立場で、(良い意味で)無秩序に並んでいた。ユーザーは、どのような作品に出会うかも分からない広大な大海原を『ネットサーフィン』し、一期一会の出会いを果たしていた。
ところが、ネットの世界でも、徐々にヒエラルキーができてきて、創作物に優劣がつけられ、見られる創作物と見られない創作物の格差が広がっていった。たとえば、『小説家になろう』などの執筆サイトでも、ランキングに載る作品は読まれるが、ランキングに載らない作品は読まれないという傾向が顕著になる。そして、読まれるために、創作者は同じような流行りモノの作品ばかりを書くようになり、作品の中身が均一化していく。
その流れは、アルゴリズムの発達によってさらに顕著になり、ユーザーに届けられるのは、全て〈すでに競争に勝ったモノ〉=〈同じようなモノ〉ばかりとなっている。
文学フリマに集まっているお客さんには、〈自由市場〉とは対極になってしまったネットの世界に愛想を尽かしている人が少なくないのではないか。
そして、出店者、作品間の優劣がない(あったとしても可視化されていない)文学フリマの世界に、一種の〈ユートピア〉を見出しているのではないか。
3 なぜアマチュアの作品を買うのか
文学フリマの出店者のほとんどは、プロではない、アマチュアだ。
当然ながら、文学フリマのお客さんも、ほとんどの方が、アマチュア作家の書いた作品を買っている。
では、なぜお客さんは、わざわざお金を出して、アマチュア作家の作品を買うのだろうか。
若干斜めからの視点になるが、この問いに対する一つの回答は、「別にお客さんはアマチュアの作品を買いたいわけではない」というものである。
つまり、お客さんが求めているのは、文学フリマという〈自由市場〉(もしくはコミュニケーションの場)であって、そこで売っている本がたまたまアマチュア作家のものであるため、結果としてアマチュアの作品を買っている、ということだ。
もはやネットの世界は〈自由市場〉ではない、というのは上で述べたが、商業出版の世界も、ほとんど同様の理由で(もしくは、資本主義の牙がよりハッキリと剥き出される形で)〈自由市場〉とは呼べなくなっている。流行りの売れ筋の作品が、金太郎飴のように大量生産される世界なのだ。
ゆえに、街の本屋よりも、文学フリマの方が、売り場として魅力があるという考えは十分に成り立つ。作者と直接コミュニケーションを取れるということも、商業出版の世界では、普通はない。
文学フリマという〈場〉が素晴らしいことは間違いないと思う。
もっとも、プロ作品と比較して、アマチュア作品には一切優位性がないのだろうか。
この点について、『文学フリマ物語』から引用する。『日記屋 月日』の運営会社の代表を務める内沼晋太郎さんのインタビューでの発言を、著者の鈴木さんが要約した部分だ。
「(アルベール・カミュの日記を読んでから、)日記が面白いと感じて作家の日記などを読んでいたが、文学フリマのような自主制作本の即売会に行くようになり、気付いた。プロの作家ではない『素人』の書いた日記は、『素人』が書いた小説よりも興味を持ちやすい。小説の場合は、わざわざプロではない目の前にいる人が書いたものを読む必然性が希薄でハードルが高いが、日記の場合はその人の職業や暮らしに興味を持てれば、自然と興味を持つことができる(259ページ)」
ここで述べられていることは、〈日記〉というジャンルにおいては、アマチュア(「素人」)とプロとの間に差がない、ということである。むしろ、「職業や暮らし」に興味を持たれやすい可能性を考えれば、アマチュア(「素人」)の方が優位であるとさえ解釈できる。
文学フリマでは〈ノンフィクション〉が人気であり、その傾向はさらに強まっているのだが、上の議論は、〈日記〉にとどまらず、〈ノンフィクション〉全般に敷衍できると思う。
〈ノンフィクション〉においては、プロの作品よりもアマチュアの作品が優位である場合があるのだ。
しかし、このことに気付いても、僕は安心することができない。
なぜなら、僕は――新生ミステリ研究会は――読まれる「必然性が希薄な」小説を創作するサークルだからである。
4 ミステリゆえの悩み
独立系書店が扱いやすい自主制作本について、内沼さんの別の発言を引用する。
「小説は難しいんですよ。無名の人の小説が独立系の書店に置かれても、それはちょっと難しい(327ページ)」
これは感覚的によく分かる。巧拙が出やすいこともあり、小説の場合には「素人」の作品はあまり読みたくない。それは僕自身もそうだ。
しかし、新生ミステリ研究会は、「難しい」ことは十分に理解しつつも、小説で、文学フリマに挑まなければならない。ゆえに、常に悩み、考え続けなければならない。プロの作品(商業出版作品)に対する強みをどのようにして出すのかを。
一つの方向性は、あえてプロにはできないことをすることだ。商業出版だとNGが出るようなデンジャラスな展開を入れたり、あえて売れ筋から離れたことをしたり。
新生ミステリ研究会のスペース読書会は、(少なくとも僕にとっては)そういう試みの一つだ。プロの作品に対して、失礼を承知で、忌憚のない感想を述べている。これはプロ(同じ業界にいる人)には決してできない。
ただ、そこまで無理をしてプロとの差別化を図る必要はないかもしれない、と最近思う。
特に意識せずとも、プロとの差別化は、自ずと実現するのではないか。
商業的なプレッシャーがない、というのはすごくデカい。プロの作家には、売れるかどうかという悩みが常につきまとう。それが作品の内容に不可避的に反映されてしまう。
しかし、新生ミステリ研究会には、そうしたプレッシャーがない。ゆえに、己の美学を追求した作品を書くことも、一人一人の読者の満足度を追求した作品を書くことも、自由にできる。
もちろん、巧拙でプロに差をつけられないことは大前提だ。ただ、プロと同等の実力さえ蓄えられれば、きっと、プロよりも面白い作品が書ける。
日々鍛錬を怠らずにいれば、新生ミステリ研究会は、プロさえも超えられる可能性を秘めていると僕は確信する。