


25/05/11 文学フリマ東京40

コラムを更新しました:【ず死ーマッ】を追え、崖から飛べ

今回のコラムは、『小説を書き慣れている人向け』のコラム。マンネリに苦しむ人の為のコラム。
さあ、貴方も『バターノート』を捨てて広い場所へ行こう。
うまい小説が書きたい。それは文字を書いたことのある人間なら誰しもが持った悩みだろう。かくいう私もその一人だ。
今回のコラムは『そういう人々』に対する福音となればいいなと思い執筆する――言うなれば、全ての創作者へのラブ・レターである。
「バターノートをプレイするな」
その言葉を、ジャズ音楽への造詣がある人間ならば、誰しも知っているだろう。ジャズの巨匠、マイルス・デイヴィスが同バンドのピアニスト、ハービー・ハンコックに向かってステージ上で告げた一言である。
ハービー・ハンコックは自分の音楽のマンネリ化に悩み苦しんでいた。毎日のようにジャズを演奏するハンコックは、徐々に自分の鍵盤が何を弾いても同じ曲、同じ空気感にしか感じられなくなっていたのだ。鍵盤を叩き、ハンマーが音符を叩き、観客が満足しても、バンドメンバーに褒められても、ハンコックはまるで水底の石のようになって音への喜びを感じられなくなっていた。その瞬間まで、ハンコックの目の前には砂漠のような鍵盤が広がっていたのだ。
だからこそ、ハンコックは初め、「バターノート」に大いに迷った。意味がわからなかったからだ。
○○ノート、という言葉は音楽の世界に様々ある。しかしバターノートという言葉は、それまで全くなかったし、その表現が意図する意味は複数考えられた。正解は一つなのか、それともマイルス・デイヴィスのユーモアに富んだ音楽的な表現なのか――。
ハービー・ハンコックは逡巡する。
バター? バターノート? 脂肪……私は脂っこく音を弾いていたのだろうか。だとするなら、何が音の中でもっとも『脂っこい』?
ザ・マイルス・デイヴィスクインテットでは、リハーサルをしない。ジャズ・インプロヴィゼーションバンド(即興バンド)ではよくあることである。ハービー・ハンコックに時間はなかった。やるしかないのだ。もうステージの上にいる。
バター……コードの中でもっとも脂っこい、明白な味をしているのはサード、そしてセブンスの音だ――
だから切羽詰まって、ハービー・ハンコックはその音を抜かした。時に明らかに不協和に聞こえる隣合った音を鳴らすこともあった。
混乱し、時折プレイさえ止まりながらも、演奏は続く。ハービー・ハンコックは必死に食らいついた。バターノートをプレイするな。最も使いやすいサードとセブンスを封印する、その試みは、彼を実に焦燥させた。急に片手を縛られたような気分だった。あっという間に時間が過ぎ、演奏は終わる。
そしてその演奏が終わったとき、ハービー・ハンコックは週で一番の拍手を得た。そして何よりも彼を感動させたのは、自分のプレイが、音楽が生き返ったことだった。バターノートを封印した、頼れる相棒を失った時、彼は遂に新たな場所へと辿り着いたのだ。
耳障りのいい音から遠ざかる。愛しい場所から離れた時、ハービー・ハンコックは新たな景色を鍵盤に見出していた。バターノートを使う必要がなくなったのではない、その世界に、本来なら有り得ないようなその音の並びの深淵さに、ハービー・ハンコックは魅了されたのだ。そこに向かおうと志したのだ。不協和の先にある心地よい音の並び、それまででは有り得ないフィーリングは、最も安心から遠い場所にあったのだ。
また、ジャズプレイヤーの名手、故バリー・ハリスはこのように言う。
「ピアノ上でコードの勉強するだけでは、インプロヴィゼーションを身に着けることは出来ない。完璧なボイシングを作り、その通りに弾かなければならないなんてのはふざけている。本来の音楽から遠ざかっている。そんなプレイヤーには、不可能だ。生きたラインを、生きたフレーズを作り出すことが出来ない。(略)プレイヤーはコードのことを考えていては演奏はできない。わたしは(コード)チェンジを歌っている」
長ったらしく序章をしたが、実のところ、今回の私の主張はもう殆ど終わっている。音楽家の彼ら、ジャズプレイヤーの彼らが殆どその答えを教えてくれているのだ。
僕は常に、バターノートをプレイしてしまっていないか?
文字を書くとき、知らず知らずの内に最も『美味しいところ』をしつこく、過剰に書いていないか? 予想される展開に甘んじていないか? 綺麗なシーンを書くことで満足していないか? 妥当な結末に、飼い慣らされていないか?
創作者は陥りやすい罠である。『妥当性』というのは、なくてはならないものだ。ミステリにおいては一等重要視される神秘の不可侵と言っても他にはない。しかしながらこの妥当性というのは、酷く人を拘束して、時に幻覚を見せる。
『ああ、綺麗な物語を書けた』
というような幻覚で満足していないか? そこにある異常性に、『妥当性』のヴェールが引っかかって気付いていないことはないか? はっとしたなら、物語から「バターノート」を消すしかない。最も美味しそうに見える、誰もが同じ音符を、言葉を奏でている部分を原稿から消さなければならない。サードとセブンスが邪魔になっていないか? だとするなら、その文字書きは、恐らく「生きたフレーズ」を歌っていない。完璧なボイシングから発生する気持ちの良さそうに見える「コード」に意識を取られていないか? 物語というのは、「チェンジ(変化)」を書くものである。チェンジが描けているか?
そう、これは永遠の問いかけである。創作者にとっての禅問答。悟る形はみな違い、最終形も様々ある。ハービー・ハンコックがサードとセブンスを封印して悟ったように、全員が違った形で「バターノート」を発見する。それを外したとき、人はとても豊かに創作ができるようになるのだろう。私もまた、「バターノート」を探す途中だ。
ただ一つ――この話にオチを付けるとするならば。
実は「バターノート」は「ボトムノート」の聞き間違えだった――つまり「バターノート」なんてものは最初っからどこにも無かったということである。
まるで禅宗の十牛図のようだ。結局のところ問いかけの答えは常に、己の内側にしか有り得ないのである。
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